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【COGHCC聖書通読】 2019/01/29

2019-01-29 08:25:06 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 8:1-7

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。

モーセによって与えられた律法は、人間には到底守ることのできない神の義の基準を示すものであり、それによって何が罪かを人に教えるものでしたが、結果的に人はその罪の故に死を免れないことを指し示すことになりました。そこで神様は罪なき御子イエスをこの世に送り、人となられた御子を罪に定めて私たちの身代わりに裁くことによって、人に救いの道を開く新しい戒めを与えてくださったのです。この新しい戒めを信じ受け入れた者は、御子によって新しい霊が授けられ、肉によって歩む古き人の生活から、霊によって歩む新しい人としての信仰生活を送ることができるようになります。

https://www.bible.com/81/rom.8.1-7.ja1955

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ローマ人への手紙 8:8-13

また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

神様はキリストを信じた者に内なる霊を授けてくださったのですから、もはや肉の思いに従って生きるのではなく、霊によって生きる、神に喜ばれる人生を送ることができるように備えられているのです。ですから私たちはもはや古い肉の生き方、世俗的なライフスタイルを捨て、新しい霊の生活、神の御言葉に聞き従い信仰の喜びに満ちたきよい生活を送るように改めるべきです。もし古い生活を捨てられないならば、私たちに与えられたきよい霊の働きを無にすることとなり、私たちは神の更に厳しい裁きを免れることはできないでしょう。霊によって古い肉の自分を葬り去り、新しい生き方、信仰によって歩むきよい生活を率先して守り行う私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.8.8-13.ja1955

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ローマ人への手紙 8:14-17

すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

天地万物を統べ治める神の子とされたとは、まことの王族の一員となったことを意味します。私たちの内に与えられたきよい霊に聞き従って歩む者は、神の子、すなわち天の御国の相続人であり、永遠のいのちを得る資格を得ていることを、内なる御霊が自ら証人となってくださるとは、何たる恵みでしょうか。

https://www.bible.com/81/rom.8.14-17.ja1955

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ローマ人への手紙 8:24-27

わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

人は何か目標に向かって突き進むとき、希望に満ちた、真に生き生きとした生活を送ることができます。しかしいったん目標をすべてクリアしてしまうと、充足感よりも目指すもののない虚無感に襲われ、何のために生きているのかわからなくなってしまう、燃えつき症候群に陥ってしまいます。しかし神を信じる私たちには常に生きる目標があります。それは人の努力によっては決して到達することのできない、天の御国の希望です。そして自分には無理だ、到底できないと自己嫌悪に陥るようなとき、御霊自ら声にならないうめき声のような執り為しの祈りをもって私たちを支えてくださいますから、私たちはこの希望を決して手放してはなりません。

https://www.bible.com/81/rom.8.24-27.ja1955

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ローマ人への手紙 8:28-30

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。 そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

私たちが決して忘れてはならないことは、神様はよいお方であるということです。神様の願いは、神のかたちに造られた私たち人間が神に似る者となり、義とされ、永遠のいのちの栄光に与ることです。自分にとって良いことが起こるかどうかではなく、神の願っておられる人間本来の姿を取り戻すこと、これが神様のご計画であり、神の益の本質です。

https://www.bible.com/81/rom.8.28-30.ja1955

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ローマ人への手紙 8:35-39

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

もう一つ忘れてはならないことは、神様は私たち人間を決して見捨てることも見放すこともなさらないということです。私たちが罪に定められ滅ぼされるのは、神様が私たちを憎んで滅ぼそうとお考えになっているのではなく、私たちの方から神様に背を向け、罪の故に滅ぼさざるを得ない状況に自らを追い込んでいるのです。私たちは決して思い違いしてはなりません。だからこそ、この世のいかなる苦難も、脅迫も、訴えも、悪しき者の勢力も、私たちを神の愛から引き離すことはできないと断言できるのです。神の愛から引き離れさせるもの、それは私たち自身の中にある罪のみです。

https://www.bible.com/81/rom.8.35-39.ja1955
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