ローマ人への手紙 6:1-5
では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
イエスをわが救い主と信じバプテスマを受けるということは、キリストの十字架と共に罪の中に生きてきた古い自分に死に、キリストの復活と共に罪から解放された新しいいのちに生きることを志願することに他なりません。ですからイエスの御名によるバプテスマを受けた者が自ら望んで罪の生活を続けるならば、それは神の恵みを無にすることに他ならず、断じてしてはなりません。
https://www.bible.com/81/rom.6.1-5.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:6-10
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
人が肉体的に生まれることも、死ぬことも、一生に一度きりの出来事であるように、キリストの十字架と共に古い自分に死ぬことも、キリストの復活と共に新しい自分に生まれることも、一度限りのものです。ならばどうしてキリストを信じバプテスマを受けた者が、再び罪の自分に戻って生きることがあってよいものでしょうか。もはや新しい人生をスタートした者に相応しく、罪に支配されることなく、神と共に生きる私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.6.6-10.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:11-14
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
キリスト・イエスの福音の恵みは精神的世界の中に留まるものではなく、肉体も含めた全人格的に及ぶものです。もはや私たちの体を情欲に身を任せるような、キリストの十字架を無にする行為に及んでは決してなりません。むしろ己の体をきよい器として用いられるよう神の御前に捧げることこそ、罪に支配されることのない神の恵みの内に生きることです。私たちは既に罪に死に、神の義に生きる者とされていることを、改めて深く認識しなければなりません。
https://www.bible.com/81/rom.6.11-14.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:15-19
それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、 罪から解放され、義の僕となった。 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
人の罪を赦し、神の御前な義とするキリストの十字架の恵みを、私たちは決して軽んじてはなりません。イエスを信じた者はすべての罪が赦されると知って、多少の罪を犯してもきっと赦してもらえるなどという甘えた考えは、微塵も抱いてはなりません。神の義の基準を知り、神の義に生きる僕となることを自ら選択した者が、罪とは袂を分かち、神の御心に服従してきよく生きるべきことは当然のことです。自らの身体を罪に捧げることをやめ、神に捧げられた聖なる者としてきよさを保つ私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.6.15-19.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:20-23
あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
神を信じる前の過去の生活を振り返るとき、それらは顔を覆うような恥ずかしいものであったことを、私たちは誰しも知っているでしょう。神を知らずにそのような生活を続けていたとしたら、罪の結末として迎えるものは永遠の死です。しかし私たちは感謝すべきことに、神を知り、人の罪を赦すキリストの十字架の恵みを伝えられ、罪に死んで神と共に永遠に生きる恵みに与ったのですから、もはや私たちの結ぶ実は死ではなく、永遠のいのちという絶大なる神の賜物です。この恵みを決して手放すことのないように、信仰により罪から解放された状態を保ち、喜んで神に仕え、永遠のいのちに至るきよい義の実を結ばせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.6.20-23.ja1955
では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。 断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
イエスをわが救い主と信じバプテスマを受けるということは、キリストの十字架と共に罪の中に生きてきた古い自分に死に、キリストの復活と共に罪から解放された新しいいのちに生きることを志願することに他なりません。ですからイエスの御名によるバプテスマを受けた者が自ら望んで罪の生活を続けるならば、それは神の恵みを無にすることに他ならず、断じてしてはなりません。
https://www.bible.com/81/rom.6.1-5.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:6-10
わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
人が肉体的に生まれることも、死ぬことも、一生に一度きりの出来事であるように、キリストの十字架と共に古い自分に死ぬことも、キリストの復活と共に新しい自分に生まれることも、一度限りのものです。ならばどうしてキリストを信じバプテスマを受けた者が、再び罪の自分に戻って生きることがあってよいものでしょうか。もはや新しい人生をスタートした者に相応しく、罪に支配されることなく、神と共に生きる私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.6.6-10.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:11-14
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。 なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。
キリスト・イエスの福音の恵みは精神的世界の中に留まるものではなく、肉体も含めた全人格的に及ぶものです。もはや私たちの体を情欲に身を任せるような、キリストの十字架を無にする行為に及んでは決してなりません。むしろ己の体をきよい器として用いられるよう神の御前に捧げることこそ、罪に支配されることのない神の恵みの内に生きることです。私たちは既に罪に死に、神の義に生きる者とされていることを、改めて深く認識しなければなりません。
https://www.bible.com/81/rom.6.11-14.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:15-19
それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、 罪から解放され、義の僕となった。 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
人の罪を赦し、神の御前な義とするキリストの十字架の恵みを、私たちは決して軽んじてはなりません。イエスを信じた者はすべての罪が赦されると知って、多少の罪を犯してもきっと赦してもらえるなどという甘えた考えは、微塵も抱いてはなりません。神の義の基準を知り、神の義に生きる僕となることを自ら選択した者が、罪とは袂を分かち、神の御心に服従してきよく生きるべきことは当然のことです。自らの身体を罪に捧げることをやめ、神に捧げられた聖なる者としてきよさを保つ私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.6.15-19.ja1955
*****
ローマ人への手紙 6:20-23
あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。
神を信じる前の過去の生活を振り返るとき、それらは顔を覆うような恥ずかしいものであったことを、私たちは誰しも知っているでしょう。神を知らずにそのような生活を続けていたとしたら、罪の結末として迎えるものは永遠の死です。しかし私たちは感謝すべきことに、神を知り、人の罪を赦すキリストの十字架の恵みを伝えられ、罪に死んで神と共に永遠に生きる恵みに与ったのですから、もはや私たちの結ぶ実は死ではなく、永遠のいのちという絶大なる神の賜物です。この恵みを決して手放すことのないように、信仰により罪から解放された状態を保ち、喜んで神に仕え、永遠のいのちに至るきよい義の実を結ばせていただく私たちでありますように。
https://www.bible.com/81/rom.6.20-23.ja1955