ローマ人への手紙 7:1-6
それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
ローマ人への手紙はローマに住んでいるユダヤ人たち、すなわち天地万物を造られた神を信じ、義の基準であるモーセの律法を知る人々に向けて記された手紙です。そこでパウロは、律法に記されている姦淫の規定を例に挙げて、律法は私たちがこの世に生きている間だけ有効なものであると語りました。そして、モーセの律法による縛りの中に生きている者がキリスト・イエスの十字架と共に死に、イエスの説いた新しい戒めに聞き従って霊によって生きる者とされたのだと説明しました。もはや私たちを縛り付けるものはなく、自らの自由意志でキリストに聞き従う者とされていますから感謝いたします。
https://www.bible.com/81/rom.7.1-6.ja1955
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ローマ人への手紙 7:7-12
それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
新約聖書を読んでいると、律法はあたかも人を罪に縛り付けるものだと錯覚してしまいがちですが、決してそうではありません。律法はあくまでも神の義の基準を指し示すもので、もし律法がなかったら、私たち人間は何が正しくて何が罪なのかを知ることもできないのです。それは神を知らずに生きてきた人々、あるいは神を知りながら神に聞き従わなかった人々が、この世でどのようなことを行ってきたかを見ればわかります。人は自分の欲望の達成のためには、どんな罪でも犯します。生存本能、利益追求の欲望、名誉欲などを満足させるためには平気で人を蹴散らし、踏みつけ、略奪し、挙げ句の果てには殺しさえします。それが律法を知らない人間の、まるで野生の動物と変わらない、否、それ以上に非道な鬼畜と化した成れの果てです。ですから私たちに律法が与えられているのは、人が罪を罪として認識するために必要なものなのです。ただ、その律法の用い方を間違って、人を縛り付け、死に至らしめる道具にしてしまったのがユダヤ人の過ちだったのです。
https://www.bible.com/81/rom.7.7-12.ja1955
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ローマ人への手紙 7:13-18
では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
律法によって神の義と罪、善悪の基準を知ることができたとき、私たちの中で分裂が起こります。それは自分の意志では善を行いたいと願いつつも、意に反して悪を行ってしまうことを欲する、肉体的な弱さを持つ人間の本質的な問題です。頭ではわかっていても、体がついて行かないのです。これは適切なたとえではないかもしれませんが、最近、認知度が広まってきた性同一性障害にも似た、本人にとっては生きて行くのが嫌になるほどの、極めて苦しいものではないかと思います。(これは心と体が分裂した状態の苦しさを表現しようとしたもので、性同一性障害の善し悪しを決めつけるものでは決してありません。)パウロもまたその苦しさを自ら体験しながら、人に善悪の基準と真理を教え諭す律法が、かえって人を苦しめることになっている矛盾と戦っていたのではないでしょうか。
https://www.bible.com/81/rom.7.13-18.ja1955
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ローマ人への手紙 7:19-25
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
頭では悪と思って理解していることを、したくないと願いながらもしてしまう霊と肉体との分裂状態、それが罪に支配された人間の弱さであり、人を死に至らしめる根本原因です。その真理を人に説きながらも、自分もまた同じ弱さに縛られていると自認していたパウロは、自分はなんと惨めな人間なのだろうと、その心情を正直に吐露します。しかしイエス・キリストの十字架による罪からの解放の恵みを知ったパウロは、神に感謝すべきかなと、声高らかに宣言しています。律法では救いようのなかった霊肉分裂状態の自分を、救ってくださるイエスの新しい戒めにただただ感謝するばかりです。
https://www.bible.com/81/rom.7.19-25.ja1955
それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。
ローマ人への手紙はローマに住んでいるユダヤ人たち、すなわち天地万物を造られた神を信じ、義の基準であるモーセの律法を知る人々に向けて記された手紙です。そこでパウロは、律法に記されている姦淫の規定を例に挙げて、律法は私たちがこの世に生きている間だけ有効なものであると語りました。そして、モーセの律法による縛りの中に生きている者がキリスト・イエスの十字架と共に死に、イエスの説いた新しい戒めに聞き従って霊によって生きる者とされたのだと説明しました。もはや私たちを縛り付けるものはなく、自らの自由意志でキリストに聞き従う者とされていますから感謝いたします。
https://www.bible.com/81/rom.7.1-6.ja1955
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ローマ人への手紙 7:7-12
それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。 しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。 わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、 わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。 なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。 このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。
新約聖書を読んでいると、律法はあたかも人を罪に縛り付けるものだと錯覚してしまいがちですが、決してそうではありません。律法はあくまでも神の義の基準を指し示すもので、もし律法がなかったら、私たち人間は何が正しくて何が罪なのかを知ることもできないのです。それは神を知らずに生きてきた人々、あるいは神を知りながら神に聞き従わなかった人々が、この世でどのようなことを行ってきたかを見ればわかります。人は自分の欲望の達成のためには、どんな罪でも犯します。生存本能、利益追求の欲望、名誉欲などを満足させるためには平気で人を蹴散らし、踏みつけ、略奪し、挙げ句の果てには殺しさえします。それが律法を知らない人間の、まるで野生の動物と変わらない、否、それ以上に非道な鬼畜と化した成れの果てです。ですから私たちに律法が与えられているのは、人が罪を罪として認識するために必要なものなのです。ただ、その律法の用い方を間違って、人を縛り付け、死に至らしめる道具にしてしまったのがユダヤ人の過ちだったのです。
https://www.bible.com/81/rom.7.7-12.ja1955
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ローマ人への手紙 7:13-18
では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。 わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。 わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
律法によって神の義と罪、善悪の基準を知ることができたとき、私たちの中で分裂が起こります。それは自分の意志では善を行いたいと願いつつも、意に反して悪を行ってしまうことを欲する、肉体的な弱さを持つ人間の本質的な問題です。頭ではわかっていても、体がついて行かないのです。これは適切なたとえではないかもしれませんが、最近、認知度が広まってきた性同一性障害にも似た、本人にとっては生きて行くのが嫌になるほどの、極めて苦しいものではないかと思います。(これは心と体が分裂した状態の苦しさを表現しようとしたもので、性同一性障害の善し悪しを決めつけるものでは決してありません。)パウロもまたその苦しさを自ら体験しながら、人に善悪の基準と真理を教え諭す律法が、かえって人を苦しめることになっている矛盾と戦っていたのではないでしょうか。
https://www.bible.com/81/rom.7.13-18.ja1955
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ローマ人への手紙 7:19-25
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。 わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
頭では悪と思って理解していることを、したくないと願いながらもしてしまう霊と肉体との分裂状態、それが罪に支配された人間の弱さであり、人を死に至らしめる根本原因です。その真理を人に説きながらも、自分もまた同じ弱さに縛られていると自認していたパウロは、自分はなんと惨めな人間なのだろうと、その心情を正直に吐露します。しかしイエス・キリストの十字架による罪からの解放の恵みを知ったパウロは、神に感謝すべきかなと、声高らかに宣言しています。律法では救いようのなかった霊肉分裂状態の自分を、救ってくださるイエスの新しい戒めにただただ感謝するばかりです。
https://www.bible.com/81/rom.7.19-25.ja1955