伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2019/01/30

2019-01-30 08:05:57 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 9:1-5

わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。 すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられることも、栄光も、もろもろの契約も、律法を授けられることも、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、 また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。

同族のためにならばこの身が呪われても構わない、と綴ったパウロの言葉は真実です。なぜならパウロは生涯を通じて、何度迫害されても、死の淵をさまようほどの目に遭っても、訪れた町々でまず最初にユダヤ人たちを探して福音の言葉を語ったことは、使徒行伝に立証されています。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」私たちは、一度酷い目に遭わされた人々を前にして、ここまで歩み寄るどころか、怯えて近寄ることさえできないのが通常ですから、神の民イスラエルに対する福音伝道に賭けるパウロの熱い心は疑う余地もありません。このパウロの熱意に倣い、同胞の救いのために全精力を傾けさせていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.9.1-5.ja1955

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ローマ人への手紙 9:6-13

しかし、神の言が無効になったというわけではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」。 すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである。 約束の言葉はこうである。「来年の今ごろ、わたしはまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。 そればかりではなく、ひとりの人、すなわち、わたしたちの父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、 わざによらず、召したかたによって行われるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。 「わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてあるとおりである。

真のイスラエル人とは、人種としてのイスラエル民族とは異なります。イエスがナタナエルと出会ったとき、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われたように、心から神を求め、真理に聞き従うことのできる人が真のイスラエル人なのです。それは私たちが自らの意志で神を求めようと思い始めたのではなく、まず神様の方から私たちを選んで、真摯に神を求める心を授けてくださったのです。これこそが肉によるアブラハムの子ではなく、神の一方的な選びによる約束の子、真のイスラエルの意味するところです。なぜならアブラハムの子孫にはイシマエル、エサウもいましたが、イサクの子ヤコブの子孫だけがイスラエル人とされたように、神様が選び、約束してくださった者だけが、真のイスラエルとなることができるのです。その選びの流れを、異邦人である私たちも受け継いでいることを心から感謝したいと思います。

https://www.bible.com/81/rom.9.6-13.ja1955

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ローマ人への手紙 9:14-18

では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。 神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

神の選びの話になると、神は不公平だ、神が愛ならば何故こんなえこひいきをするのか、と反論する人が必ずいます。しかし神の愛はすべての人に注がれていますが、受け取る側に受け入れ体制が整っていない人は、神様は選びたくとも選べないのです。それが、憐れもうとする者を憐れみ、慈しもうと思われる者を慈しみ、頑なにされようとする者を頑なにされる、神の選びの基準です。神に対して不平不満を並べ立てる前に、まず神の意志に聞き従う素直な心がありやなしやを自問する私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.9.14-18.ja1955

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ローマ人への手紙 9:19-24

そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。

神によって創造された人間が神に対して不服を申し立てるのは、陶器が陶器師に向かって、何故こんな器に作ったのかと文句を言うことと同じだというのです。陶器師が、今日は茶碗を作ろうと思って作ったところ、どうして花瓶にしてくれなかったのかと、器が文句を言う筋合いがあるでしょうか。神に対して不平不満をつぶやく者は、それと同じです。しかも神様は、陶器師が様々な器を、それぞれの用途に応じて最も適切に用いられるように形作るように、様々な人種の私たちも、それぞれに最も相応しいかたちで召し、異邦人も福音に与る恵みの道を開いてくださったことに感謝すべきです。私たちは神様のなさりたいように造られた、欠けだらけの器ながら、神の憐れみが豊かに注がれている恵みを覚え、神に対して決してつぶやいてはなりません。

https://www.bible.com/81/rom.9.19-24.ja1955

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ローマ人への手紙 9:30-33

では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。

神の選びの民であったイスラエルが義に至ることができず、むしろ異邦人のクリスチャンが神の義に与ることができたのは、自分たちに与えられた律法に固執したイスラエルが信仰によらず行いによって義を得ようとしたからだとパウロは説きます。神の義の基準を人に教え諭す律法が躓きの石となり、人を義から遠ざける結果となったことは皮肉ではありますが、霊によらず肉により、信仰によらず行いにより義を獲得しようとする者は、神の選びの民イスラエルでさえ義に至ることができないとしたら、異邦人の私たちはなおさら神の義から遠く離れてしまいますから、注意せねばなりません。

https://www.bible.com/81/rom.9.30-33.ja1955
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【今日の聖句】 2019/01/30

2019-01-30 06:35:15 | 今日の聖句
コリントの信徒への手紙一 13:1 新共同訳

たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

たとい神から授かった預言の言葉や、天使の言葉といわれる異言を語ることができたとしても、愛のない言葉ならば銅鑼やシンバルを耳元でかき鳴らすように喧しいだけに過ぎません。何を語るにせよ愛に基づいて語り、人々の心を高め、潤し、癒す言葉を口にできるよう唇をきよめていただく私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/1co.13.1.新共同訳
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