伊藤ファミリーBLOG

「緑のgoo!」のテンプレートに変えてみました!
(注:コメントスパム・TBスパムは予告なく削除させていただきます)

【COGHCC聖書通読】 2019/01/18

2019-01-18 08:15:47 | 一日一章・聖書通読日記
使徒行伝 25:1-6

さて、フェストは、任地に着いてから三日の後、カイザリヤからエルサレムに上ったところ、 祭司長たちやユダヤ人の重立った者たちが、パウロを訴え出て、 彼をエルサレムに呼び出すよう取り計らっていただきたいと、しきりに願った。彼らは途中で待ち伏せして、彼を殺す考えであった。 ところがフェストは、パウロがカイザリヤに監禁してあり、自分もすぐそこへ帰ることになっていると答え、 そして言った、「では、もしあの男に何か不都合なことがあるなら、おまえたちのうちの有力者らが、わたしと一緒に下って行って、訴えるがよかろう」。 フェストは、彼らのあいだに八日か十日ほど滞在した後、カイザリヤに下って行き、その翌日、裁判の席について、パウロを引き出すように命じた。

ペリクスに代わり総督となったフェストは、着任早々3日後にカイザリヤからエルサレムに上り、これから深く関わりを持つことになるユダヤ人の指導者たちを訪問しました。すると彼らは2年前からカイザリヤに監禁されていたパウロのことを持ち出し、エルサレムに呼び出して裁判に掛けたいと願い出ました。彼らはその実、エルサレムに連行すると見せかけて暗殺するつもりだったのです。2年間も殺意と恨みを抱き続けるとは、尋常な心理状態ではありません。フェストはローマ人を裁判に掛けずに引き渡すのはローマの慣習にはないと言って彼らの申し出を断り、カイザリヤに来て訴え出るようにと申し送りました。そしてカイザリヤに帰還した翌日、直ちにパウロの裁判に取り掛かりました。総督が交代しても、神様はローマの法律と慣習によってパウロの身の安全を守ってくださいました。私たちもまた様々な法律や治安などを介して神様に守られていることを感謝したいと思います。

https://www.bible.com/81/act.25.1-6.ja1955

*****

使徒行伝 25:7-12

パウロが姿をあらわすと、エルサレムから下ってきたユダヤ人たちが、彼を取りかこみ、彼に対してさまざまの重い罪状を申し立てたが、いずれもその証拠をあげることはできなかった。 パウロは「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」と弁明した。 ところが、フェストはユダヤ人の歓心を買おうと思って、パウロにむかって言った、「おまえはエルサレムに上り、この事件に関し、わたしからそこで裁判を受けることを承知するか」。 パウロは言った、「わたしは今、カイザルの法廷に立っています。わたしはこの法廷で裁判されるべきです。よくご承知のとおり、わたしはユダヤ人たちに、何も悪いことをしてはいません。 もしわたしが悪いことをし、死に当るようなことをしているのなら、死を免れようとはしません。しかし、もし彼らの訴えることに、なんの根拠もないとすれば、だれもわたしを彼らに引き渡す権利はありません。わたしはカイザルに上訴します」。 そこでフェストは、陪席の者たちと協議したうえ答えた、「おまえはカイザルに上訴を申し出た。カイザルのところに行くがよい」。

パウロが法廷に出てくるや否や、ユダヤ人指導者たちは彼を取り囲んで様々な重い罪状を申し立てましたが、何一つ証拠がなく、パウロは身の潔白を主張したため、裁判は膠着状態となりました。そこで総督フェストは、自分の任期中、長い付き合いになるユダヤ人たちの歓心を買おうとして、ユダヤ人たちが申し出たようにエルサレムで裁判を受けるかと妥協案を提案しましたが、パウロは自分はユダヤの法廷ではなくローマの法廷で裁判を受けており、何ら罪にあたることはしていないのは明白であるのだから、ローマ皇帝カイザルに上訴すると、ローマ市民としての権利を行使しました。そこでフェストはパウロの主張を認め、ローマに行くようにと判決を下しました。このような形でローマに行くことになるとはパウロ自身も思いも寄らなかったでしょうが、そのおかげでパウロはローマ行きのと工費も必要とせず、身の安全も国家に守られて、ローマに行くことができるようになりました。神様のなさることは人知を越えてはるかに大きなスケールで御心を成し遂げられます。

https://www.bible.com/81/act.25.7-12.ja1955

*****

使徒行伝 25:13-21

数日たった後、アグリッパ王とベルニケとが、フェストに敬意を表するため、カイザリヤにきた。 ふたりは、そこに何日間も滞在していたので、フェストは、パウロのことを王に話して言った、「ここに、ペリクスが囚人として残して行ったひとりの男がいる。 わたしがエルサレムに行った時、この男のことを、祭司長たちやユダヤ人の長老たちが、わたしに報告し、彼を罪に定めるようにと要求した。 そこでわたしは、彼らに答えた、『訴えられた者が、訴えた者の前に立って、告訴に対し弁明する機会を与えられない前に、その人を見放してしまうのは、ローマ人の慣例にはないことである』。 それで、彼らがここに集まってきた時、わたしは時をうつさず、次の日に裁判の席について、その男を引き出させた。 訴えた者たちは立ち上がったが、わたしが推測していたような悪事は、彼について何一つ申し立てはしなかった。 ただ、彼と争い合っているのは、彼ら自身の宗教に関し、また、死んでしまったのに生きているとパウロが主張しているイエスなる者に関する問題に過ぎない。 これらの問題を、どう取り扱ってよいかわからなかったので、わたしは彼に、『エルサレムに行って、これらの問題について、そこでさばいてもらいたくはないか』と尋ねてみた。 ところがパウロは、皇帝の判決を受ける時まで、このまま自分をとどめておいてほしいと言うので、カイザルに彼を送りとどける時までとどめておくようにと、命じておいた」。

パウロにローマ行きを認めたものの、ユダヤの律法に関してはわからないことだらけで、ローマ皇帝の前で裁判を受けるに値する訴訟理由を見出すことのできなかったフェストは困り果てていました。そのとき、ユダヤ地方の王であったヘロデ・アグリッパ2世とその妻ベルニケが着任したばかりのフェストを表敬訪問に訪れたため、彼らに意見を求めました。このときのフェストの判断が記されていますが、パウロはローマの法に反する罪は何一つ犯していないこと、この裁判の論点はユダヤ人の信仰に関することであり、ユダヤ人たちが死んだと言っているイエスが生きているとパウロが主張していることだと、事実を極めて的確に判断していました。神と人との前にやましいことを何一つ行っていなければ、周囲の人たちもちゃんと見ていますから、私たちも何一つ恐れる必要などありません。

https://www.bible.com/81/act.25.13-21.ja1955

*****

使徒行伝 25:22-27

そこで、アグリッパがフェストに「わたしも、その人の言い分を聞いて見たい」と言ったので、フェストは、「では、あす彼から聞きとるようにしてあげよう」と答えた。 翌日、アグリッパとベルニケとは、大いに威儀をととのえて、千卒長たちや市の重立った人たちと共に、引見所にはいってきた。すると、フェストの命によって、パウロがそこに引き出された。 そこで、フェストが言った、「アグリッパ王、ならびにご臨席の諸君。ごらんになっているこの人物は、ユダヤ人たちがこぞって、エルサレムにおいても、また、この地においても、これ以上、生かしておくべきでないと叫んで、わたしに訴え出ている者である。 しかし、彼は死に当ることは何もしていないと、わたしは見ているのだが、彼自身が皇帝に上訴すると言い出したので、彼をそちらへ送ることに決めた。 ところが、彼について、主君に書きおくる確かなものが何もないので、わたしは、彼を諸君の前に、特に、アグリッパ王よ、あなたの前に引き出して、取調べをしたのち、上書すべき材料を得ようと思う。 囚人を送るのに、その告訴の理由を示さないということは、不合理だと思えるからである」。

フェストからパウロの取り扱いについて相談を受けたアグリッパとベルニケ夫妻は、自分たちもパウロから直接話を聞いてみたいと興味を示したため、さっそく翌日パウロを呼び出して弁明の場を設けました。彼らは王服を身にまとって威厳ある者のように振る舞い、フェストも彼らを立てて、ユダヤ王としての権威を尊重する形で場を盛り立てました。しかし私たちはこの世の権威の前にではなく、天地万物を統べ治められる神の御前に立つ者です。人の表も裏もすべてを見通され、真理であられる神の御前に立たされても恥ずかしくない、きよい信仰生活を送っているならば、この世のいかなる権威の前に立たされても、物怖じすることなく、正々堂々と振る舞うことができます。

https://www.bible.com/81/act.25.22-27.ja1955
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【今日の聖句】 2019/01/18

2019-01-18 06:35:05 | 今日の聖句
マタイによる福音書 7:24 新共同訳

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」

まことの信仰は御言葉をただ聞くだけで終わらせず、自らの生活に適用して実践することが重要です。永遠に変わることのない神の御言葉という堅い岩盤の上に、揺るがない信仰というしっかりとした家を建て上げ、どんなに激しいこの世の嵐にもびくともしない確かな人生を送る私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/mat.7.24.新共同訳
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする