伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2019/01/22

2019-01-22 07:55:19 | 一日一章・聖書通読日記
ローマ人への手紙 1:1-7

キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから- この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、 御子に関するものである。御子は、肉によればダビデの子孫から生れ、 聖なる霊によれば、死人からの復活により、御力をもって神の御子と定められた。これがわたしたちの主イエス・キリストである。 わたしたちは、その御名のために、すべての異邦人を信仰の従順に至らせるようにと、彼によって恵みと使徒の務とを受けたのであり、 あなたがたもまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属する者となったのである- ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。わたしたちの父なる神および主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

今日からパウロ書簡の一つ、ローマ人への手紙を通読します。昨日まで通読していた使徒行伝では、パウロがローマにも行きたいと願い、まずエルサレムに戻ってからローマに行くつもりでいました。なぜローマに行きたいと願ったのか、それはローマにおる信徒たちのところへは、まだ使徒や伝道者は誰も直接出向いて福音を宣べ伝えていなかったからです。誰も宣べ伝えていないローマになぜ信徒がいたかというと、ペンテコステの日に聖霊が降り3,000人が救われたとき、そこにローマからエルサレムへ巡礼に訪れていたローマ在住のユダヤ人たちがいたからです。そしてパウロとしばしば行動を共にしたアキラとプリスキラ夫妻もローマから来た人々で、彼らがローマに戻って福音を伝えた可能性も多分にあります。そのローマにパウロは直接出向いて、聖霊によるバプテスマを授けたいと願ったのだと思います。パウロ書簡の書き出しは、パウロ自身による自己紹介の証と挨拶から始まります。恵みと平安があるようにとの挨拶は、恵みを祈るカリスというギリシャ式の挨拶と、平安を祈るシャロームというユダヤ式の挨拶の合成であるとのことです。ギリシャ哲学の影響を色濃く受けたローマの信徒たちに、イスラエルの神の御言葉により真理を伝えたいパウロならではの配慮だと思います。

https://www.bible.com/81/rom.1.1-7.ja1955

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ローマ人への手紙 1:8-15

まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。 わたしは、祈のたびごとに、絶えずあなたがたを覚え、いつかは御旨にかなって道が開かれ、どうにかして、あなたがたの所に行けるようにと願っている。このことについて、わたしのためにあかしをして下さるのは、わたしが霊により、御子の福音を宣べ伝えて仕えている神である。 わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。 それは、あなたがたの中にいて、あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うためにほかならない。 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。

挨拶に続き、パウロはどれほどローマの人々に福音を伝えたいと願っているか、その思いの丈を書き連ねます。異邦人伝道のために主イエスが直接出会い、熱烈な迫害者から改心させて選ばれた器として、パウロの責任感は並々ならぬものがありました。私たちもまたパウロに倣い、自分の周りにいるまだ福音を知らない人々に、何とかして御言葉を伝えたいという熱い情熱を胸に抱き続けることができますように。

https://www.bible.com/81/rom.1.8,10-15.ja1955

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ローマ人への手紙 1:16-21

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。 神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。

福音を恥とすることは、イエスを恥とすることです。自らのいのちを差し出してまで私たちを罪から救い出してくださったイエスを恥とするとは、恩を徒で返すような、なんと不遜な裏切り行為でしょうか。福音の力を信じられないとしたら、私たちはどうして救われるのでしょうか。私たちは主イエスの顔に泥を塗るようなことはしたくはないと思います。そしてパウロは、神様が創造されたこの大自然そのものが神の存在を証するものであると断言しています。日本にも、山や岩、大木などの絶景ポイントに注連縄を張って神とする習慣がありますが、この感性を持っているならば、天地万物を造られた神様こそまことの神であると信じることは、ごく自然な、当然のことです。神の御手の業である被造物を信じるのではなく、神そのものを信仰の対象とする発想の転換を促すために、福音の御言葉を伝える私たちでありますように。

https://www.bible.com/81/rom.1.16-21.ja1955

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ローマ人への手紙 1:28-32

そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。 彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。

まことの神を神としないことが、すべての悪の始まりだとパウロは続けます。神の義を知らないから、他のものを正義の基準とします。しかし神に代わる絶対的な基準はこの世にはなく、必ず何かしらに傾いています。それが自分の考えであったり、偉大な人の思想であったり、人それぞれに違うからこそ見解の相違が生まれ、争いや敵対心の温床となっているのです。あらゆる悪しき思いの根元である、神を神と認めない心を改め、生ける神の御言葉なる聖書を共通の義の基準とするとき、私たちは真に一致することがかできるようになり、愛と平和の支配する世界を実現することができるのではないでしょうか。

https://www.bible.com/81/rom.1.28-32.ja1955
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【今日の聖句】 2019/01/22

2019-01-22 06:35:05 | 今日の聖句
ヘブライ人への手紙 10:24-25 新共同訳

互いに愛と善行に励むように心がけ、 ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。

意志の弱い私たちは一人では初志貫徹することは難しくとも、仲間と共に励まし合うならば継続できるようになります。同じ信仰を持つ仲間たちと共に集い、神の愛と義を世に証するために互いに励まし合う私たちでありますように。

https://www.bible.com/1819/heb.10.24-25.新共同訳
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