今日は、村上光照老師のTV出演を見ての感想を書いてみたい。
私は村上光照老師との出会いは昭和43年(1968年)だから、45年も前のことになる。私が25歳、村上さんは30歳。出会った場所は京都にある臨済宗の妙心寺の塔頭で山田無文さんが住持をされていた霊雲院という寺院である。訪ねるとちょうどFAS協会の坐禅会が行われていて村上さんは食事の世話係だった。頭は丸坊主で後から分かったことだが昭和40年に亡くなった澤木老師から出家得度を受けておられたのである。
昼時だったので食べて行けと言われて出されたのが、玄米ご飯にお椀の中に梅干しと生野菜のぶつ切りにしたものが入っていた。汁物があったかなかったは覚えていない。村上さん曰く、「この食事にして、みんなが坐禅に集中できるようになった。食べ物が大切なの」
下宿を訪ねると小さな会社の2畳ほどの休憩室ようなところに間借りしていて、生活費は15000円、新大卒の公務員給与の半分である。食べているものはというと、アメリカ産の大豆と一緒に炊いた玄米ご飯、おかずは卸売市場で買って来た業務用わかめ、これを茹でて醤油をかけて食べる。
あるいは、青果店で貰ってきた人参や大根の葉っぱを刻んで生で食べる。はは~ん、これでも生きていけるんだと妙に安心もしたことを覚えている。
しかし、後日談して聞いた話だが、そのような生活を続けて肝臓を壊したとのこと、葉っぱに付着した農薬が原因だったらしいが、断食して直してしまったとのことで常人の発想とは大いに異なる。
ある時、伏見稲荷へ行くというので付いて行ったが、社殿で丁寧に拝礼されたので、この人の中では神佛習合しているのかと妙に感じてしまった。こっちは神社の雰囲気は好だし、祭りも好きだが神様として信じているわけでもないからである。
で、私がこのブログのテーマとして、自己世界を持ちその主催者となりそれを創造するとしているが、村上老師には我々俗人とは違うユニークな世界が展開おられることが分かると思う。
ゴキブリに茶碗を洗わしたり、蟻、蝶々、蛇との共生、自然との調和、神様、佛様、神様もインドの、日本の、キリスト教のと一緒に存在、下の画像は今年貰った年賀状だが、正に村上光照ワールドである。
我が家のゴキブリはゴキブリホイホイに貼り付けの刑が当たり前だし、数日前にも居間で本を読んでいたらカサコソ音がする、どうやらゴミ箱に餌を漁りに来て被せてあるレジ袋に触れての音である。袋の口をきゅっと締めて捕獲、あくる日に火炙りの刑に遭ってしまった。一法ワールドのゴキブリは哀れである。
(追記)
ネット検索をかけたら、次のサイトが見つかった。以前TVに出られた時のものをまとめられているので、参考までに。
村上和尚の原子物理に関する考えを聞いたことがありませんのでどう考えておられるかこちらとしては分かりません。
原子エネルギーの活用を十分考えておられたと思いますが、スリーマイル、チェルノブイリ、福島原発を事故を見た中においては、まだまだという印象を持たれているのではないでしょうか。
人類はまだ原子力を用いるだけの技術的にも精神的にも力を持ちえていないという考えではと思います。
現代文明への批判が発言の節々に見られるように思います。
私なんかは70億の人間を養うのにその利用はやむ無しという考えです。
原子力とは仏の授けてくださった無量に近いエネルギーかと思います。
このエネルギーを世界の進展と調和させるために人類に課せられた課題について、どのようにお考えでしょうか。
本日のテレビ視聴者のひとりで、特に物理学を研究するものではない一般市民です。
ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
コメントありがとうございました。ご返事が遅くなりました。
禅は実物、実際主義でいろんな教えはそれへのヒント、誘導的なものと考えます。
私なんかは好き嫌いがはっきりしている方で、性に合わないものは寄せ付けないのですが、村上さんはその点柔軟なのでしょうね。
では。
紫雷はmixi他(放置状態)でのハンドルです。
知恵袋では的を得た回答を有り難うございます、仰るサンガは殆どが軽度の勧誘でしょうし、他の宗教者ならそれはそらで尊重する形だと思うので、わたしも尊重しますよ(^^)
しかし、村上さんは知りませんでしたが(私は知らない方が圧倒的)、面白い方(もちろん良い意味で)ですね、キリスト教も仏教も神道も何でもあり?
思うに教学的な知識も去ることながら「肌で学ぶ」ことを知ってるのではと思います。
と言うのもキリスト教の神も神道の神も仏教の神(結構ヒンドゥー教の神も多いですが)もそれぞれ神々の一派ですから、分けて考えなくていいのだと思います。
このような考え方は原理主義や教条主義に固まってしまうと分からない、肌でも学べる方ならではのアンテナとでも言いましょうか。
神々を分けてるのは人間の側、神々は人間を分けて無いですね。
こんなこと書くと仏教圏の方からもキリスト教圏の方からも睨まれますが(^^;
私は元来が感覚派なので経典の内容はそんなに詳しくありません、でも物事「最初を知ること」の重要性は分かります、「結びとほどき」において、矛盾を結んでしまった動機がほどけ原点が明確になりますね。
まぁこんな変態も居るってことで、ご挨拶まで(^-^ゞ