3月8日(水)
だいぶ暖かい日が続くようになってきましたが、世の中では花粉症が話題になるようになってきました。僕はまだ花粉症ではありませんが、ずいぶん多くの人が悩まされています。一種の現代病なのでしょう。田舎が静岡の山奥だったので、子供の頃は杉鉄砲をよく作り、玉をとりに山に行って花粉を頭からかぶってしまったりしたものですが、当時は花粉症なんて言葉もなかったし、気にもならないことでした。今だったら気持ちだけで花粉症になってしまうのかもしれません。
さて今日は安岡正篤先生が座右の銘とされていた”六然”の話をします。元々は中国の崔銑と言う人が残した言葉のようです。自分はそうでありたいと思いながら未だ煩悩の世界をさまよっていますが。講釈はまずおいて、本題を書きます。
自処超然 (自分自身の処しかたは物事にとらわれる事がないように)
処人あい然 (人と接する時は相手を楽しませ、心地よくさせるように)
有事斬然 (何かことあるときは、ぐずぐずせずにきびきびとやるように)
無事澄然 (何もことがない時は、水のように澄んだ気持ちでいるように)
得意たん然 (得意な時ほど、静かで安らかな気持ちでいるように)
失意泰然 (失意の時にも、泰然自若としているように)
ひらがなのところはほんとは漢字ですがフォントないのでかけません。ここら辺が坂村さんが言っていたTORONチップで解消できるはずだったんですが、アメリカの陰謀くさいところです。西洋のコンピュータでは表現できない漢字がいっぱいあって人間の情緒というものを後世に残すためにももっと豊かな表現ができるようにすべきかもしれません。西洋の表現は古代中国の表現より全然お粗末なのに。もっとも今の中国は中華思想なる覇権主義的文化だけ受け継ぎ、漢字を半ば捨てているのでもっとダメだと思いますが。
意味は横に併記しておきましたのでよくわかったと思いますが、人間なかなかこうはいかないものですね。自分もそう言ってみたものの道なかばです。多分死ぬ時まで目指す志は続くでしょうけど達することはできないかもしれません。人間のほんとうの姿は、あるべき理想の生き方を目指して煩悩に悩みながら、みにくく日々精進している姿なのかもしれません。言うは安く行うは堅しなのです。ただもし生き方に上等下等があるとすれば醜くてもひたすら精進しているかどうかの違いがやがて結果として出てくるものではないでしょうか。
なんか最後は自己弁護になってしまいましたが、いつも気に留めているかどうかはビジネスの成功・不成功より大事なことだと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございます。今日はこれで終わります。