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”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(63)

2006年05月06日 22時02分16秒 | ビジネス
5月6日(土)曇り
連休もあとわずかになってしまいました。一杯休みがあると思っていたけど、予定したことのほとんどができていないのはどうしてでしょうか?忙しい時は自然と時間の使い方が効率的になるのに、時間があるとすべてがスローテンポになってしまう。でも人間にはそう言った無駄があった方がいいのかもしれません。ホームページもいざ作り出すと時間が掛かる割にはあまり進展してません。大雑把なものはできたけどいろいろ修正したいことがなかなかできない状況です。

ところで一昨日の続きのビジネスライフは教官としての話でしたね。僕は研究所でやっていた新技術を教える立場になって、逆に自分の勉強になったような気がしています。とにかく人に教える以上わからないからと言ってほっておくわけにも行かず自分なりの解釈をする真剣さが理解を助けたのかもしれません。ただコロンボ計画で来日した研修生への講義は英語で行うことになっており、自分の授業の話すことを前の晩に徹夜で英訳して、棒読みしてましたが多分彼らもわからなかったのでしょう。わからない技術をわからない英語で話すのですから。たまに質問されると、頭が真っ白になって何を言われているのかさっぱりでした。JICAのお嬢さんから日本語で聞いて日本語で答え英訳してもらいなんとかなっていました。彼らとはよく養老の滝へ飲みに行ったり、ボーリング場に行ったりしましたが、運動や食べるものがあると結構ボディランゲージで通じるものなので、いつも5時からの方が楽しかったものでした。アフリカの歌やスリランカの踊りなどを教わったり、僕らが炭坑節や阿波踊りを教えたりで、夜遅くまでワイワイやっていたことぐらいしか覚えていません。
教官時代は研修科目の中に体育の時間があり、ソフトボールの試合をよくやっており、自分の担任以外の時も講義がなければ手伝いと言うことで参加していましたので、一番遊んだかもしれません。研修生は一ヶ月近く寮生活なので夜は飲みに付き合っていましたがいつも同じ飲み屋で、研修生のみんなと薩摩白波を飲み、頭が痛くなるか、気持ち悪くなって吐くかどちらかだったので僕はあまり薩摩白波が今でも好きじゃありません。
夜は飲むばかりではなく、コントラクトブリッジもよくやりました。同僚達とコントラクトブリッジのサークルを作り、教科書まで作っていました。ついでに研修生相手に講義までやっていました。

ここでの3年間は、職場の第一線から離れていたせいか、のんびりやりながらどこかで早く次の職場に行かなければと言うあせりもあったように思います。当時はまだ出世欲もあったので同期入社の仲間が管理職になっていくのに、僕にはお呼びが来ないさびしさのような気分を味わっていたのも確かです。丁度3年目のときに懇意にしていただいていた先輩が茨城で管理職になって赴任後まもなく急死すると言うことがあり、のんびり健康に生きることの大切さも痛感したのもこの時期でした。そして3年後に僕は生まれ故郷の静岡にやっと管理職として帰してもらったのでした。実は僕は入社以来希望勤務地を静岡にしてほしいと言っていたのですが、新入社員時代のトップから”仕事もわからないやつが甘えるんじゃない”と一喝され”お前は当分静岡には行かさない”と言われていたので、8年後にやっと故郷に帰れたのです。ただ初めての職場で管理者としてどうなるのか不安だらけの赴任となっていました。そして新しい職場でも大変なことが待っていたのです。
この続きは次回に書きます。それではまた。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(62)

2006年05月04日 23時18分18秒 | ビジネス

5月4日(木)
今日は朝からパチンコに行って大負けしてしまいました。おかげで連休中にこづかいが底をつきそうです。株も今は売れそうな銘柄を持ってないし、明日はヨットで昼寝が一番安上がりかもしれません。午後は近くの温泉の露天風呂でゆっくりしてました。
さて話は昨日の続きで、研究所勤務となった僕の失敗物語になります。勤務先の直属の上司は僕の大学の先輩で学生の頃から優秀なやつとヨット部の先輩から聞いていたT氏でした。T氏は後輩が来たと言うことで結構期待してくれたのですが、学生時代も入社してからも最先端の技術など縁がなかったので、またまたわかりませんの連続でデータ通信方式だソフトウェアだと言われてもさっぱりでした。一応結構勉強はしたのですが実感として理解できていないので自信がないことばかりでした。最近になって僕は自分のことがある程度わかってきましたが、僕は体感的に理解するタイプの人間のようで、理屈の世界はテストをすればできると思うけど自分自身はほとんど納得できていないと言った人間なので、ソフトウェアの説明をいくら聞いても表面的なこととしてしか理解できず、どうしてそれでこの機械が動くようになるのか理解できずにいました。

それでも半年後には新しい方式の商用試験をするので北海道にデータ収集に行くよう言われてしまいました。丁度あの有珠山が噴火した年です。そこでまたまた変な機械に遭遇することになるのです。それは今で言うファクシミリですが、当時は4分機と言うA4、1枚を4分かかって電送する装置でした。静電破壊方式なので、受信時にドラムが回転してスキャンしていくと静電破壊特有のオゾン臭が部屋に立ち込めてくるやつです。東京からの指示が送られてきたり、こちらから試験データを送ったりしているのですが、それでも当時はすげぇ便利なものが世の中にはあるんだなぁと感心してしまいました。ただ扱い方がわからず、もたもたしているといっしょに東京や大阪から来ていた人達がテキパキとやってくれました。だから僕はただみんなのやるのを見ていただけと言ったのが正解です。ただ夜になるとススキのに繰り出してジンギスカン食べ放題とかラーメン横丁のハシゴとか北海道の食を堪能していました。金曜の夜になると夜行に乗って函館まで行って朝市でゆでたての毛蟹を食べたのがいまでもわすれられません。一匹千円で半分に切ってもらいいっしょに行った仲間と半分こにしたので500円ですが、いまでも最高の味だと思っています。それから五稜郭やら函館山など観光してから函館の寿司屋にイカを食べにいったりしてました。またレンタカーを借りて襟裳岬に行ったり、小樽に行ったり休日は遊びまわっていました。ただ有珠山の噴火以降洞爺湖などは通行止めになっており、行けなかった所もありましたが一ヶ月はあっという間にすぎてしまったのです。家では生まれて半年になる娘がいると言うこともころっと忘れていたと思います。東京に帰ると羽田空港で女房と娘が迎えに来ていたのですが、娘を抱こうとすると泣き出してしまわれたのをよく覚えています。一ヶ月も見ないうちに大きくなったけど僕の顔は忘れられててしまったようです。

この商用試験は冬には熊本で行われ、僕も2週間ほど行くことになっていました。だいたい要領はわかっていたので、今度はデータ収集も問題なくできるはずでしたが、現場の人たちがデータは取っておいてあげるから、折角の九州なのだから少し見学して行く様に言ってくれました。そこですぐにお言葉に甘えてとなったのですが、あとで東京の上司にばれて、帰京後大目玉をもらうことになってしまいました。昔は結構大目に見ていたようですがだんだん厳しくなってきた頃だったのでしょう。でも今と比べればずいぶんおおらかだったと思います。それでも指宿やら別府やらずいぶん遊ばせていただきました。もちろん土日も使ってますのであまり誤解しすぎないように。
この頃はコンピュータを中心とした技術は先進国アメリカの後追いの時代だったせいか、アメリカの技術情報誌の翻訳等も分担でよくやりましたが、僕の翻訳は正確じゃないとよく先輩にしかられてました。君の訳は日本語にはなっているけど、正確に訳してないから肝心のところが飛ばされているじゃないかと。僕はよくわからないところを飛ばして前後の辻褄を合わせて訳してしまっているのは自分でもわかっていたのですが、そこまでチェックされていたのには感心してしまいました。そんなに細かくきちっと詰めていく研究者の仕事は適性がなかったのか2年後にはまた違う職場に転勤になってしまいました。

今度は新技術を現場の技術者に教育訓練する部署の主任教官として赴任することになるすが、ここでのビジネスライフは次回報告することにします。ではまた。


しんさんのよもやま話・・・ビジネス編

2006年05月03日 19時42分53秒 | ビジネス

5月3日(水)晴
今日は憲法記念日です。戦後の昭和22年5月3日に戦争放棄を謳った日本国憲法が発布された日です。以来60年近く守られてきた憲法ですが、最近改正の動きがいろいろ取沙汰されています。改正とは正しく改めることを言いますが、どこかの国の意向によらず、より人の為になる正しさを持った日本人としての自主独立的な憲法にして行ってほしいものです。

ところで私の技術屋ビジネスライフの続きですが、入社1年後に3つ目の職場である東京大手町の事務所に通うようになりました。ここでは会社の設備の設計を担当しているところでした。またまたよくわからない仕事をするわけですが、僕は転勤に伴い昇格していたので新入社員とも言えないけど聞かないとなにもわからない厳しい状況にありました。ただ先輩のO氏に本当によく面倒みていただきました。O氏は宇都宮から大手町まで通っていたのですが、よく自分の家に僕を呼んでくれて食事等ごちそうになってました。彼が僕によく言っていたことは”お前が俺に世話になったと思うなら、それはお前が世話をできるようになった時の部下や後輩に恩を返せばいい
。”この言葉は僕の常識にはない言葉でしたが、すごく新鮮でした。世話になったお礼は自分にしなくてもよいから、世話をできる立場になったときの部下や後輩に返せ。そうやって人間社会は回っているものなのだ。後に僕が若い人達を”たこ焼きパーティ””茶摘み””ヨットクルージング”等誘うのには、自分が若い頃お世話になった方たちへの恩返しでもあるのです。人間は何か良いことをするとその見返りをほしくなるものですが、O氏のように良いことの輪が広がっていくような生き方ができたらいいなと思います。
さてここでのビジネスライフも失敗ばかりで、私が始めて設計した千葉県八日市場の施設は8千万円の工事だったのですが、細かい端子板の数が全然足らなかったり、配線を間違えていたりで詳細設計を担当している部門から苦情を一杯もらいましたがその都度上司のI氏やH課長が調整してくれていました。H課長は僕が配属した時に電車の中だけでもよいから本を読め、読む本は小説ではなくエッセイを読めと言われ、どっちが多く読めるか競争しようとまで言われてました。そして時々何冊読んだと聞いてくるわけです。まじめな僕としては、ちょっとは読まずにいられず、エッセイを読むようになったのです。でもおかげで僕は今でも地下鉄の中で本を読むようになっています。このブログでも何冊かビジネス書を紹介していますが、ほとんど毎日の通勤地下鉄の中で読んだものです。学生時代、読書ぎらいだった自分が30年近く通勤時だけの読書をいまだに続けている原点はこのH課長にあります。
H課長を筆頭にI係長・O先輩・IさんやUさんみんな仕事はきつかったけど、いい人たちの中で半人前になったと思います。競馬は日曜出勤で、IさんやUさんの買う馬券を場外売り場に使い走りすることから覚えました。以来三重勤務になるまでギャンブルは競馬ひとすじでした。競馬をやめてからはパチンコひとすじです。ギャンブルはあれもこれもやりだしたら多分お金がいくらあっても足りないので一つにしておくのが良い遊び方だと思います。女遊びは残念ながらしたことないのでよくわかりません。と言うか誰も教えてくれなかったのです。でも神田の飲み屋はよく連れて行ってもらいました。いつも三吉と言うヤキトリ屋ばかりでしたけど。(課長が好きだったため)たまにIさんやUさんにキャバレーとか連れて行ってもらったのですが、うまく話ができず水割りを飲んでばかりでいつもすぐにつぶれていました。実は当時ほとんど酒が飲めなかったのです。たいがい神田ステーションホテル(ビジネス旅館)に担ぎ込まれ、朝8時になると仲居におこされてました。もちろんみんなは僕をホテルに預けて帰宅しているのですが。そして宿代は当然ながら自腹で解決です。当時は職場のみんなが飲兵衛だったのでよく誘われていきましたが、いつも変な所ばかりでうなぎの頭だけを串に刺してヤキトリにしたのだとか、かえるやへびの肉とかで食べることもできないような所だとかでした。いつも今度はもうちょっとましな所だからと言われて行くとまた変なところで苦労しました。やはり神田は三吉のヤキトリが一番安くてうまかったです。もう30年も前の話ですから店そのものがなくなっているとはおもいますが、なつかしいところです。
僕はこの職場にいる時に結婚しました。みんなから記念にいただいた壁掛け式の時計はいまだに動き続けています。多分あのメンバーだったから結婚する気になったと思います。披露宴にもみなさん静岡まで来て頂き助かりました。それから半年後には父が亡くなり、またまたI係長はじめみんなに迷惑をかけてしまったのです。さらに長女の誕生でもお世話になったのです。この入社2年目3年目の時は本当に職場でお世話になった時期でもありました。ただその恩返しは何もできていない自分は薄情な人間かもしれませんがO氏の言葉に甘えて、10年後ぐらいから自分の周りで人に喜んでもらえることがあれば当時の恩返しだと思ってやっています。
その後僕は研究所勤務を命ぜられ、武蔵野・三鷹に赴任することになったのでした。この続きはまた明日書きましょう。ではまた。


しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(61)

2006年05月02日 23時02分37秒 | ビジネス

5月2日曇りのち晴
今日は朝2時間年休をいただき歯医者に行ってから出勤しました。まだ再就職2年目で年休があまりないので、この連休の谷間も休む訳にいかないのです。また土曜日の午前中は歯科と整形外科とここのところ忙しいのですが、先週は祝日、今週もGWで医者に行くのは今日を除くと3週間もあいてしまうのでやむなく休みを取って行って来た次第です。歯科も2月から通っているのですが、途中骨折中断があったけど、もう三ヶ月もおなじ歯にかかりきりです。最初に行った歯科の治療の失敗で奥歯が化膿してしまい、歯科を変えて膿をすべてとるための治療に二ヶ月近くかかってしまったのが原因なのでしょう。でもやっと歯の型を取るところまできたので、来週の土曜には治りそうです。多分その頃には骨折の方も完治となりそうなので、中旬以降は最高の日々になりそうです。

ところで今日は入社半年後の東京でのビジネスライフの話になります。僕は本社の端末機の技術部門に配属となり、なぜか男性だけの職場で、例年新入社員が毎朝始業30分前に出社し、上司・先輩にお茶を入れるのがきまりでした。当時僕はあまりお茶を飲まなかったので、茶漉しに煎茶を入れ、それぞれの人の湯飲みに熱湯を注いだだけで出していました。しばらくすると上司から”君は静岡生まれのようだけど、お茶を入れたことないの”と言われ、まいりました。要は僕の入れたお茶は色だけついたお湯のようなものだったのです。熱湯でなくちょっとぬるめの80度ぐらいの湯を、一度茶葉を湿らせる程度に注ぎ葉っぱを潤わせてからゆっくりお湯を注ぐこと、また人数分を順番に半分ずつ入れたあとでさらに半分入れて全員分を一杯にすることなどを細かく上司から教えられました。最近ではこんなことを新入社員にやらせたら、お茶を汲む為に入社した訳ではありませんと会社をやめられてしまうかもしれませんよね。同期の仲間に聞くとどこもみんな同じようなことをやらされていたようです。僕はあまり入れ方がうまくなかったので、結構むちゃくちゃ言われてました。今ではいい思い出になりましたが、当時は仕事はできない、お茶もうまくない、電話を取るのは遅い、三重の悩みで僕はサラリーマンの適性がないんじゃないかとかなり自信喪失ぎみの毎日でした。
とにかくここでもいろいろ失敗のデパートのような毎日でした。”君確か工学部電気科卒業してるんだよね。ブリッジ回路知らないの”(実は工学部じゃなくヨット部卒と仲間からはからかわれてましたけど)とか
”データレコーダー使ったことないの?学生の頃使わなかったの?”とか何かやる度に知らないことばかりで苦労しました。ただこの職場で昼休みに教えてもらったコントラクトブリッジは僕の好きなカードゲームになりました。(僕のホームページを参照してください。少しはどんなものかわかります。http://www3.ocn.ne.jp/~leia1755/47.html)

そして半年後関東地区を管轄する事務所で施設設計の仕事をするよう辞令を受け、また知らない仕事をするようになったのでした。この頃はすぐに知らない場所で知らない人たちと知らない仕事をすることで、いつも自信のない自分を見てきました。
今日はこの辺で終わりです。この続きはまた明日。では


しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(60)

2006年05月01日 23時38分11秒 | ビジネス

5月1日(月)晴れ
今日から5月と言うことで暖かな一日でした。5月は僕の誕生月だからというわけでもありませんが大好きな月です。僕の田舎の家の庭にはつつじがいっぱい植えてありましてこの時期にはいっせいに咲き出します。赤・ピンク・白と目立つ色合いのつつじと洋間の周りに植えててある赤いチューリップも一列に並んで咲いていました。それとちょっと遅れてあやめの花も咲き出します。そんなことで5月になると田舎の家は花に囲まれてにぎやかになるとともに、裏の茶畑は新芽の緑でいっぱいになります。天気も暖かで過ごしやすく、緑と色とりどりの花に囲まれて新しい生命の息吹に一番ふさわしい月だと思います。そんな5月に僕も誕生したのだけれども、子供の頃は農作業が忙しくて誕生祝いなどしてもらったことがありませんでした。親に頼んでカレーライスを作ってもらうのが唯一のお祝いでした。都会に出てきて何年も生活しているうちに、僕は季節感を失ってしまったような気がしています。僕たちはいろいろな便利さを手に入れた代わりに自然の季節を失ってしまったかもしれませんね。
さて今月のビジネストークのテーマは過去における思い出に残る僕のビジネスライフを語って行きたいと思います。僕はサラリーマン生活約30年のうち初めの10年はIT関係の技術者として、残りの20年はIT関係の営業マネージャーとして過ごしてきました。今思うといろいろなことがあったものです。普段はすべて忘れてしまっていますが、一年一年辿って見るといろいろ思い出してきます。読んでいる方にはつまらないことでしょうが、僕にとっては自分の生きてきた証のように思います。最初は若き頃の悩める技術者のビジネスライフを少し振り返ってみたいと思います。
僕は昭和49年に入社したのですけど、初めての勤務地は福井でした。まったく仕事のことは分からずに、部長・課長・副課長及び職場の先輩達に、多分迷惑をかけながら半年間現場研修と言う形でいろいろな業務のローテーションに入れてもらい、みんなにいつも親切に教えてもらっていました。ここでの最大の失敗は故障受付担当で電話応対をした時、お客様の端末の試験を遠隔で行い正常だったので故障していないですよと対応したことが、あとで大変な問題になってしまったことです。実はお客様の端末は正常だったのですが、接続先に故障があったのです。確かにお客様は金沢の接続先を言って僕に電話をしてきたのだけど、僕はお客様側しか調べずに答えを返してしまったわけです。これが後に苦情となって課長・部長対応になるわけですが、相手がヤクザ屋さんだったようで、僕に謝罪に来いとなりました。何もわからない土地で、僕もどうしてよいかわからずに、課長に同伴してもらい、会社で用意してもらった菓子折りを持ってお詫びに行ったのが我がサラリーマン人生最初の失敗です。以来顔の見えない電話で営業をしたり、応対するのは苦手です。唯一の救いは職場の先輩達がいろいろなぐさめてくれたことです。特に職場の花だったM先輩は美人でいつも僕を気遣ってくれました。そのほのかな恋心も6ヶ月後の辞令で東京本社に戻ることになってあっという間に消えてしまい、東京でのきびしい生活が待っているのでした。
今日はここまでです。この続きは明日以降お届けします。ではおやすみなさい。


しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(59)

2006年04月28日 23時47分40秒 | ビジネス
4月28日(金)晴れ
今日はギブスなしの一日でしたが、いままでの支えがとれたので肩の重みが骨折した鎖骨にかなり負担がかかるため、あまり快適ではありませんでした。むしろほんとによくなるのか心配になってしまいます。明日からGWなので今年はゆっくり静養し、連休あけには元の自分に戻っていればいいなと思います。
ところで昨日、日本人の精神的バックボーンが失われつつある話をしましたが、人間と言う動物は一人で生き抜くほど強い動物ではありません。家族・友人・と言った集団でお互いに支えあって現在の繁栄を築いてきました。これらの集団を守るために共通の神・哲学・言葉が必要だったのだと思います。ところが集団のまとまりを維持するための哲学がないと言うことは、過去の歴史においては、その集団の滅亡を意味していました。そう言う意味で、我々一人ひとりの喜怒哀楽に対する共通の判断基準となる考え方(宗教・哲学)を今一度構築する必要があります。
あまりにも豊かになりすぎて、国がまずしかった頃の勤勉さ・素直さを忘れてしまったのかもしれません。確かに今の世の中はお金さえあれば、何でもできると思っている人が多いかもしれませんが一度災害とか戦争とか起こるとお金は何の役にも立ちません。食べ物を自分で作り、家畜を自分で飼い、原材料から料理すると言った生きていくための最低限の知識と実践を誰が教えていくのでしょうか?最近僕は子供達に農業・漁業・料理と言った基本的な生きるための技を伝えることが一番大事なような気がしています。このような共同作業を通して共通の精神的バックボーンが生まれてくるのだと思っています。僕は32年間サラリーマンとして便利な機械やコンピュータに携わってきたけど、趣味としてヨットや登山など自然を相手にしてきたことが、多分生きていく基本的な素養を身につけるのに役立っているような気がしています。そして我々ロートル世代はみな基本素養の何らかのことができます。そして我々世代が子供達に伝えていくしくみが作れたらいいなと思います。過疎の村には教育の実践的な現場となりうる山や田んぼが荒れ放題になっているのですから、もったいないことです。
今の若い人達は誰もコンピュータのことは勉強したいけどサバイバルな生き方の素養を勉強したいと言うひとは多分いないでしょう。教えられる人はだんだん高齢化しているけどまだ間に合います。現代企業の技術を学ぶ前に是非サバイバル基本素養を養う機会を作ってほしいものです。これから年寄りが多くなりますが、年寄りが子供に教える機会が増えればきっと年金・介護の問題も解決していくような気がします。僕もこれから仕事の傍らでこんなことを教える機会があれば楽しいなと思っています。
変な話になったけど、今日は終わりにします。おやすみなさい。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(58)

2006年04月27日 20時23分06秒 | ビジネス
4月27日(木)曇りのち晴れ
今日は朝はちょっと肌寒く雨が降りそうな天気でしたが、午後は急に暖かくなりましたね。夕方医者に行ってやっと原則ギブスをはずしても良いことになりました。ここ2週間原則ギブス着用から、原則はずしても良いですからほっとしています。でも完治ではないようです。リハビリしながら2週間後にもう一度レントゲンで確認して、やっと長かった骨折生活から脱却できるようです。でももう二度と骨折はしたくないものです。このつらさはやったものしか絶対にわからないと思います。多分やったことない人は頭の中で理解していてもその行動が実感としてわからないでしょう。まさに前回の朱子学と陽明学ではないですが、僕は知行合一の陽明学を実践したことになります。こんなことで実践してもしょうがないですけど。
ところで今日は日本の歴史における精神的バックボーンを考えてみたいと思います。日本に大和朝廷ができて、その背景となる哲学は八百万の神々を祀り、祈祷と伝説を規範としていたと言えます。それが聖徳太子の時代に仏教が伝来し神道と仏教の融和思想ができ、後の奈良時代・平安時代は他力本願の仏教が、鎌倉時代は仏教でも自力本願の禅宗が政治的背景となります。鎌倉末期に後醍醐天皇による王政復古の南北朝はその背景に儒学(朱子学)があった話は前回しましたが、その後の室町時代はやはり禅宗が背景にあったように思います。そのあとの戦国時代、安土桃山の時代はどちらかと言うと禅宗的かもしれませんが何も精神的背景のない混沌の時代だったと思います。そして江戸時代になって世の中が落ち着いてくると、封建的な儒学(朱子学)が精神的バックボーンとなり、武士道なる日本的儒学が確立してきます。江戸末期になって一部陽明学をトリガーにして明治維新への動きを加速しますが、明治・大正・昭和の時代は朱子学・武士道を背景とした官僚による時代だったと思います。それが太平洋戦争後武士道を中心とした精神的背景を教育することができなくなり、我々日本人はバックボーンを今失いつつあると言っていいでしょう。戦後の高度成長時代はそれでも、社会的なリーダー達は武士道教育を子供の頃受けていること、さらに戦後生まれの僕達第一世代は親の影響を多分にうけていたことなどから、まだ精神的バックボーンがあったと言えます。問題はこれからの戦後第二世代の時代には精神的バックボーンのない世代が登場してきます。これからの日本の一番の心配は、心の支えとなる道徳がバラバラになっていることだと思います。別に仏教道徳であろうが儒学道徳であろうが武士道的道徳だろうが神道的道徳(?)だろうがかまいませんが、我々日本人の根底となる思想的バックボーンが失われてきつつあることは政治においても、企業においても問題だと自分は思います。どんなことがおきても軸足のぶれない基本となる精神が社会的発展には必要不可欠だと思うからです。これからの若いリーダー達には是非心の支えとなる哲学を身につけてもらいたいものです。お金中心の世の中ですが、お金では買えない心の豊かさを身につけてほしいものです。そしてお金だけで動かない或いは損得だけで動かない人間としての生き方の哲学であってほしいと思います。
だいぶ年寄りじみたお説教のように言われてもしょうがないけど、お金のために魂を売る人達の事件を聞くたびに、またそれを防止する目的だけの法律で縛る今の社会は歴史からみると、長く続いたことはないようです。我々が歴史から消えないようもっと、心のあり方をそれぞれが勉強すべきです。
今日はこの辺で終わりです。ではまた。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(57)

2006年04月25日 22時53分57秒 | ビジネス
4月25日(火)曇りのち晴れ
今日も寒い一日でしたね。もうすぐ5月だというのに。
さて今日はどんなことを書きましょうか?最近ネタ不足が顕著になり、どちらかと言うと毎日の話に連続性がないと思いますが、だからよもやま話だと堪えてください。以前朱子学と陽明学の話をしましたが、少し補足をしたいと思います。孔子の教えである儒教は宋代に朱熹によって朱子学として整理されました。朱子学は理を重視した道徳感を体系化した点ですごいことなのですが、あまりにも形式的になりすぎたため、明代に王陽明によって心を重視した実践的な儒教が出てきて”知行合一”と言う言葉に代表されるような考え方でてきた。と言うような話を以前しました。(No38)その時は朱子学は尊王の考えの元に官僚制度のような政治的支配のための学問と思っており、人間本来のあるべき姿は陽明学にこそあると思って書いていました。それはそれで今でもそうだと思っていますが、なぜ陽明学が中国ではあまり評価されていないのかよくわからなかったのですが、最近ちょっとわかったような気がしています。それで今日補足を書いてみる気になりました。おそらく陽明学で言う道徳感はすごく当たり前で正しいと思います。ただあまりにも正しすぎて怖いのかもしれません。本質を突きすぎていて、遊びがまったくない歯車のようなものかも知れないと思ったのです。それと政治を支配する側からみたら統治しにくいのかもしれません。
その点朱子学は尊王の秩序の上に道徳を体系化しているようなので支配側からは扱い易い学問なのでしょう。日本の歴史の中で朱子学は二度とりあげられていますが、皆さんは御存知でしたか?実は僕も徳川幕府が朱子学を奨励したことは知っていましたが、もっと昔に取り入れて朝廷を作った人がいたことは最近までしりませんでした。そのもう一つと言うのは南北朝時代の後醍醐天皇だそうです。後醍醐天皇は宋で起こった朱子学を聞き、単純に本来の王である天皇を中心とした政治に戻すべきとの考えから、鎌倉幕府をつぶしたようです。ただ当時は朱子学を学んだ学者もほとんどいなかったため、あまり支持もえられなかったようです。特に尊王の思想の元に論功褒賞を行ったため、足利尊氏等の武士から不満が出て、北朝の樹立、室町幕府の時代になっていったようです。その点江戸時代には武家の学問として充分な下地ができていたため、明治への大政奉還はスムーズにいったとのことです。(No38と矛盾しているように思われるかもしれませんが、イノベーションのトリガは陽明学的に行われ、政治的な仕組みづくりは朱子学的に行われたと考えればいいと思います。同じ儒学ですから)
僕は陽明学を究めた人間でもないし、まして朱子学の詳しいことはよく知りませんが、いろいろな解説書を読みながら、陽明学は極めて本質的な生き方を示していると思うけど、切れすぎる刀のようなもので使い方を間違えると結構正しいがゆえに怖いものかもしれません。江戸末期の陽明学者の不幸なできごとも、そんなためなのかもしれません。
今日はこの辺でおわりです。明日は飲み会があるのでお休みです。また木曜に会いましょう。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(56)

2006年04月24日 23時31分10秒 | ビジネス
4月24日(月)晴れ
今日は久しぶりによい天気でしたね。僕の肩の調子も極めて順調でした。このブログモ既に4ヶ月が経とうとしています。実験的に始めた割にはよくもだらだらと書き続けたものだと思いますがあまり技術的な進展がありません。もう少しなんとかと思いつつ書くことだけに追われてきたような気がします。これからはそうあせらず研究心を持って取り組んで行きたいものです。
ところで今日は失敗した時の対処法ですが、僕は最近イナオリスト法での処し方が多くなってきました。失敗にもいろいろありますが、チャレンジとしてみんなが認めているものの失敗や自分が覚悟を決めて取り組んだ結果としての失敗は、次の手立てが得られることからあまり気にしないで対処できると思いますが、自分の不注意でやってしまったことは結構悔やんでしまいますよね。そんな時、取り繕ったり、うそをついたりしがちです。その結果さらにことは悪化してしまうものです。そんな時は Fact is Fact で開き直って妙な取り繕いをせず、クビになっても、左遷させられても自分が悪かったんだからしょうがないと考えて、事後の対処を正々堂々とすることがベストだと思います。目先のことを考えるとなかなかできないですが、人間の生き方として、間違いは次に起こさないように自分自身が気をつけ、隠さず堂々と生きる方が、仮に切られてもかっこいい生き方だと思っているのは僕だけでしょうか?そうかもしれないけど人生にはいろいろなことがあるので、成功も失敗もあって当たり前のこと。逃げ隠れせず正面から失敗とも向き合って格好悪い事態に自ら耐える生き方は最高に格好いいことだと思うことです。
僕もしょっちゅう失敗ばかりの人生ですが、最後は自分の生き方ができれば、人がなんと言おうといいのではないかと思う今日この頃です。それではまたあした。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(55)

2006年04月21日 23時34分54秒 | ビジネス
4月21日(金)曇り時々晴れ
今日は寒かったですね。ちょっと外出した時に、やはり鎖骨がちょっと痛むような気がするのは寒さのせいかもしれません。
ところで昨日ブログに書いたように自分が夢中になっていることや好きなものの延長上で生まれた新しいビジネスが一番成功確率が高いのでしょう。そこで今の自分が夢中になれそうなものは何かと考えてみると、数年前に比べて極端にジャンルが少なくなっています。少し前までは材木屋と言われるくらいに気(木)が多かったはずですが、半分まぁいいか気分になっている自分がいるのは年齢のなせるわざなのでしょうか?あまり無理して考えることでもないので気楽にいきます。
そこで今日はスパークリング・ワインの話をしましょう。僕らは通常シャンパンと言っている泡立つワインのことです。ほんとうはスパークリング・ワインが正式な名前で、その中で特にフランス北部のシャンパーニュ地方で製造されたものだけがシャンパンと呼ばれるのだそうです。シャンパンの誕生は今から350年ぐらい前の1668年にシャンパーニュ地方のベネディクト派の教会(僧院)で酒庫係をしていた盲目の僧ドン・ピエール・ペリニョンが偶然発見したと言われています。まだ発酵が終わっていないワインをビン詰めしたところ、ビンの中で発酵が進み発泡性のあるワインが出来てしまったのが真相のようです。このシャンパンにはいろいろな銘柄があるようです。僕らはドンペリが最高級のシャンパンと思いがちですが(実は僕は最近までそう思っていました。)とは言っても発見者の名を冠するだけあって、王室・皇室の晩餐会で世界各国のセレブリティにサーブされるシャンパンとして有名であり、すべてがヴィンテージです。高級シャンパンには希少中の希少であるサロンやシャンパーニュ界のロマネコンティと呼ばれる希少なフィリポナと言うのもあるそうです。もっとも僕はドンペリ以外は飲んだことありませんが。ドンペリも正直言ってうまいのかよくわかりませんでした。これらのシャンパンはすべてヴィンテージですが、このヴィンテージとは優れたブドウが収穫できた年のワインだけで作られ、ラベルにはその生産年がはいったものを言います。反対にノンヴィンテージは生産年の違うワインを数十種類ブレントしたものを言うそうです。当然ヴィンテージは特定の収穫年ならではのブドウの個性が際立っているのだそうです。
今日はなんとなくシャンパンの話になってしまいましたが、またの機会にワインにまつわる話しも、して見たいと思います。こんなこともビジネスマンとして知っておくのもいいと思います。ではまた。