逆噴射します?
郵政改革法案が成立しても、
成立せず解散しても、
公約実現。
前者なら、郵政改革実現!
後者なら、自民党をぶっ壊すを実現!
どっちでもよし。
Captain! なんてことをするんですか!
造反者処分できず。
なぜなら、この前は自分が造反者。
操を捧げた相手は;
今は「長いドラマ」の第何章?
自民党の党是
造反有理
自民党特別顧問
今日の造反、昨日の造反、同じアホなら、あばれにゃソンソン!
造反して副大臣解任
懐妊 希望! のため造反
■この日(7/10)、ロンドン地下鉄・バスでのテロ事件を受けて、石原慎太郎は、ヨーロッパ白人の近代における侵略政策、植民地政策を批難し、こういう怨念に基づくテロはありえることだ、との認識をおすめすになりますた。
次の週、石原慎太郎は「フランス語を侮辱した!」とフランス語学校校長ら おフランス語屋さん に訴えられた。
石原は、「例えば91は『4つの20と11』と数える」などを例として、フランス語は数をまともに数えられないと言ったらしい。
例えば、91を『4つの20と11』などいう言い方をするのはいかにも不細工のように思えるが、実際言語というものの体系は恣意的なものであるので、そういう不細工はいかなる自然言語にもありうることである。
しかしながら、おいらのような雑民が石原の おフランス語ふみにじり に卑しくも喝采してしまうのは、フランス人を筆頭とする毛唐さんたちは自分たちこそ理性の具有者であり、その理性による文明の一番の基礎的なものが言語、フランスならフランス語であると偉そうにしてきたのではないか!
「明晰ならざるものはフランス的ならず」という伝統で御存命あそばしているとのこと。
とそんなえらそうなことを言っているやつらが、91を『4つの20と11』というのだ。
もちろん、論理的にまちがっているわけではない。91は『4つの20と11』!
でも、91は『4つの20と11』と観念している御仁たちがそう明晰でもなかんべ。
と、おいらはおもうべな。
ただし、
91は『3つの30と1』とか、
91は『2つの40と11』とか、
91は『9つの10と1』とか、
いろいろいいうる中で、91は『4つの20と11』!
というひとつの恣意的な観念の仕方をしているとフランス人が自覚していて、
言語の恣意性を自覚していたとするなら、恐るべきことではある。
応援団はフランス派
■日本語での授業で、日本語教師が「それではこの日本語コースの中長期計画を説明します。来年の今ごろまではしかじかをします。来月は%&です。来週は#$です。いいですか?」と説明すると、生徒が手を挙げ、「それでは先生! 来日 の授業はなんですか?」と聞いたそうだ。
『看羊録』-朝鮮儒者の日本抑留記- 姜沆
東洋文庫の『看羊録』をネットの古本検索でここ数ヶ月探していましたが、落手できました。
今日現在、ネット古書検索「日本の古本屋」にはありません。こまめにチェックしてたら、出てました。
おいらの『看羊録』についてはこちら「羊をめぐる暴言」
ちゃんとした解説はこちら。
この本は現代語訳でおいらにも読めます。
例えば、一 賊中封疏(賊中からの上奏文) の 3 侵略に加わった大名たち、にわれらが 伊達中将政宗の名前。 それへの姜沆の註が、「最初に晋州に侵入した、眇(すがめ)で一眼の勇敢(かんの字が違うがカンベン)な者」とある。他の大名は註がないか、ただ事実関係、たとえば**に侵入したとか、しかかかれていなのに、容貌と性格が書かれているのは 政宗 のみ。
なぜだろう。
姜沆は誰かから情報を集めたはず。その情報提供者が政宗情報を持っていた。ではなぜその情報提供者が政宗情報をもっていたか? おいらの推定では政宗という男は宣伝戦のため情報リーク・ばらまきを組織的に行っていたのではないか?
姜沆紹介web site: 姜沆:日本儒学(朱子学)の父
JT
▲機会不平等について。
一般的に制度はそのメリット、デメリットを勘案して存続なり廃止を検討せねばならない。
機会不平等のデメリットについて考える。
■思考実験■
前提:機会が均等な競争社会を仮想する。
(ここでは義務教育以上の学校→就職という職種のモデルケースを想定。学校にあまり関係ない、たとえば職人とか、それこそカリスマ美容師とかは想定外。)
仮に、教育と、社会での各ポストへの競争選抜の機会が平等に与えられることになれば、その結果を、機会均等という制度に与るはずのすべての国民が、甘受しなければならない。
つまり、入学の競争にせよ、就職の競争にせよ、機会さえ均等に配れば、その結果は正当なものとなる。もし奨学金制度などが完備した場合(もちろん選抜の機会も公平)、高学歴あるいはすばらしい職業技能などの好条件を得たものは、それは正当であり、引き続く就職や収入の好条件も正当とみなされるべきである。
なぜなら、競争は公平に行われたのであり、敗者は奨学金制度などが完備していたのにもかかわらず、勉強ができなかったからである。たぶん、怠け者だったり努力嫌いだったのであろう。せっかく機会が均等なのに残念だ。そんな「負け組」が時給600-800円の仕事をするのは当然である。なぜなら、彼らは機会が平等に与えられたにもかかわらず高学歴あるいはすばらしい職業技能を取得しなかったからである。
したがって、機会さえ均等に配り、競争して「勝ち組」「負け組」が形成され、所得格差が生じて当然である。なぜなら機会をうまく利用して競争に勝ったものが高収入を得るのが当然だから。
もちろん、「負け組」の次世代には機会均等用奨学金制度が準備され、競争社会のスタートラインにたつことができる。
■おしまい■
もちろんこれはおいらの主張ではない。機会均等を走らせたときの競争社会のシミュレーションである。
●では過去の日本社会の実際はどうであったのか。これはおいらの印象描写であるが;
戦後日本社会では、1980年代までは、高卒でも大卒でも、ある人は中卒もというが、収入はそうかわらなかった。イメージでいうとせいぜい30%というところか(後記*1)。なぜかというと、1960年代、1970年代と大学に行く家はやっぱり裕福な家だったのである。一方、金がないばっかりに行きたかった秀才もたくさんいた。つまり、大学に行けた恵まれた人は自分よりも優秀でも金がなくて大学にいけなかった同級生をたくさんみていたのである。なにより、社会や企業がそれをわかっていた。大学にいけなかった秀才は大手企業などに入り活躍した。重要なのは1960年代、1970年代は高卒だからといって「優秀ではない」ということがなかったのである。事実、1960年代、1970年代の一部大手メーカーでは当時の高卒者は、現在の大卒者よりよっぽど重要な業務をしている。
●すなわち、機会が不平等だったことが自明であったため、高卒でも大卒でもあからさまな格差がつけられなかったのである。
●家が貧乏だから大学に行きたくてもいけない人をなくすのがいいこと、と単純に言えるか?
もし、なくすと、高卒だけど優秀(貧乏だから大学いけなかった)という「隠された宝刀」の威力がなくなってしまう。高卒者は機会をやったにもかかわらず大学いかなかった。だから低収入でいいんだ、という言説に正当性を与えることになる。
(後記*1)データがあった。
社会学者が1955年から10年ごとに調査している「社会階層と社会移動全国調査」のデータを見ると、1995年における50代大卒男性と高卒男性の平均年収の格差は約1.5倍。中卒男性との差は2.1倍だ(「社会階層 豊かさの中の不平等」(原純輔・盛山和夫著、東京大学出版会、1999年刊)。
進む学歴格差、学歴マイノリティの生きる道は?より。
■進藤ひかる。 俳優紹介
クラスの子供の序列化のための最初の試験で1番。
同時に、教師・阿久津真矢は説教で、勉強の重要性を説き、勉強しないと政府の愚民化政策に唆(そそのか)されると言う。つまりは政府の思惑を批判する人間を育てたいと表明しているようにも見える。しかし、学力増進を求めるが、教師への反抗は許さないという方針も持っている。
そんな中、クラス1番の秀才の進藤ひかるは公然と教師・真矢の強権的教育に堂々と弁舌で反論する。そのことで、クラスの一番勉強ができない生徒がやる「雑用係」を押し付けられることとなる。この際、友だちが試験中にトイレに行きたいのを、教師・真矢の不許可に反論、助け同伴したことがきっかけである。
つまり、進藤ひかるは秀才にして信念と義侠心(弱きを助け、強きを挫く)をもった役回りを与えられている。
こういう役回りは日本の伝統的な劇、あるいは実際の歴史での事件で必出のキャラである。
例えば、クラスでの行事ボイコット「クーデター」の計画段階では乗り気ではなく、クーデター首謀者にそううまくはいかないと忠告をする。果たして、一部裏切り者や彼らの意志薄弱でそのクーデターが失敗する。そこで、当初クーデターはうまくいかないと言っていた進藤は、首謀者の懲罰に同伴する。
安藤輝三をおもわせる。
■一方の、きゃらが ばばちゃん である。
運動神経が鈍く、頭が悪く、友だちもいない子供。そういう自分に仲良くなってくれた友達を裏切り、教師・真矢と密約し保身を謀る。
あわれにも卑しい人間である。
▲さて、進藤ひかるは今後展開するドラマでどういうメッセージを送るキャラとなるのだろうか?おいらの空想では、任侠の「進藤ひかる」こそ、その経歴の明らかにされていない教師・真矢の子供時代なのではないかとにらんでいる。
▲このドラマ、原理的に今日の日本で全くありえないお話であるが、いやありえないことを前提として、そのありえないお話の枠組みの中で、真実を穿(うが)つこと、が織り込まれている風に見えることが特徴である。特に主人公の女教師の主張として表現されるものが。 しかしながら、さらに考えると、現代日本の真実を穿っていると見えるその主人公の女教師の主張も、またありえないものとも見えてくる。
▲つまりは笑いながらやるはずのパロディやカリカチュアの再現を、シリアスにホラー調にやるのである。だから、本当にパロディだかわからなくなり、時にはプロパガンダにも見える。 これが、こんなドラマは打ち切ってくれという少なからずの声が出てきている背景である。
▲そんなホラードラマのありえないシーン、主人公の女教師の演説。「現在日本は6%の優秀な人間のみが特権的に幸せになれる社会で、これは勉強して勝利した者がなれる。一方、勉強もしなかっただめ人間は安い賃金労働者になる」。 演説内容そのものはそんなに間違ってないだろう。こういうことが上述の真実を穿つ発言といったことだ。 しかしながら、一方、こういう内容を教諭、それも普通公立小学校の、が演説するという現実はありえない。 これがこのドラマのあり得なさの基本的枠組みである。 さらに、真実を穿っていると見えるその主人公の女教師の主張も、またありえないものとも見えてくるのは、確かに日本は一握りの特権グループが日本の命運を左右する体制になりつつあるにしても、そのグループが勉強のでき不できまるわけでもない。 こういう点が、このドラマの安易な虚構性であり、この部分で藁ってほしいのかとも思えてくる。
■「現在日本は6%の優秀な人間のみが特権的に幸せになれる社会で、これは勉強して勝利した者がなれる。一方、勉強もしなかっただめ人間は安い賃金労働者になる。」などというドラマでなかったら絶対放送禁止の命題のように見えるが、実はこれこそ近代日本の基本的理念だったのである。 もっとも6%か何%かしらんが。
福澤諭吉、『学問のすすめ』。
この本こそ、
人間はみな等しいはずなのに、賢い奴・ばかな奴、びんぼう人・金持ち、といろいろいる。これはなんでだべ?
そうだ、勉強だ。
といっている本である。
■しかしながら、現代日本の特権階層が勉強をその正統性の根拠としている気配はない。2世、3世の政治家はKOデーガクなんて大学に多く、かつ最近内閣総理大臣を輩出しているのは、学問のすすめなどではなく、近代封建制の賜物である。
封建制は親の仇&学問のすすめ
近代封建制の賜物&ワンフレーズのすすめ
スーパーフリーでーがくすっすん&学問って何?
▲ということで、よくわからんこのドラマ。落ちはどうなるのでしょう?
●このドラマ、ある種の救いのなさを打ち出すことを見込んで、エンディングの映像を作ってある。すなわち、ドラマ撮影の カット(終了) から天海はじめ各々の俳優が、おつかれさま~! と 素 に戻るシーンとなっていて、ひとむかし(ふた昔?)前のドラマの「このドラマはフィクションです」などいう野暮な文字表現はなく、かつ、素に戻るだけでなく、素としての俳優群が 素の役割 で踊るというシーンを、メイキング風に作って、エンディングとしている。
●つまり、それなりに、あるいは周到に、戦略的なドラマを作っているつもりらしい。 したがって、ドラマ放送打ち切りを望む視聴者の声は製作者の、べたな次元での、「想定の範囲内」であろう。もちろんそんな声に耳を傾けることなく、その騒動をきっかけにこのドラマをみた おいら のような奴による視聴率向上への貢献を、予想どおりとほくそえんでいるのだろう。それをふまえて、このドラマがなんなんだ!? ということを考えねばならない。