いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

 『女王の教室』、福澤諭吉

2005年07月16日 20時40分56秒 | その他
▲『女王の教室』というテレビドラマが話題になっているらしい。 そのドラマのダイジェスト版をやっていたので見た。 見た。そして、考えた。 そもそもこういうものをどう見たらいいのかわからん。 基本的に内容は学園ドラマというものではなく、ソーシャルサイエンスフィクション&ホラーといったものと、おいらはお見受けした。 大雑把に言えば、仲間由紀恵のでてた学園ドラマ(見てないけど)風というより、映画「バトルロワイアル」風である。 独得の いやーな 気持ちにさせてくれる。 この気持ちはなんだろうと探ると、子供のころ札幌祭りで見た見世物小屋の蛇女やマンガ『漂流教室』を思い出す。

▲このドラマ、原理的に今日の日本で全くありえないお話であるが、いやありえないことを前提として、そのありえないお話の枠組みの中で、真実を穿(うが)つこと、が織り込まれている風に見えることが特徴である。特に主人公の女教師の主張として表現されるものが。 しかしながら、さらに考えると、現代日本の真実を穿っていると見えるその主人公の女教師の主張も、またありえないものとも見えてくる。

▲つまりは笑いながらやるはずのパロディやカリカチュアの再現を、シリアスにホラー調にやるのである。だから、本当にパロディだかわからなくなり、時にはプロパガンダにも見える。 これが、こんなドラマは打ち切ってくれという少なからずの声が出てきている背景である。

▲そんなホラードラマのありえないシーン、主人公の女教師の演説。「現在日本は6%の優秀な人間のみが特権的に幸せになれる社会で、これは勉強して勝利した者がなれる。一方、勉強もしなかっただめ人間は安い賃金労働者になる」。 演説内容そのものはそんなに間違ってないだろう。こういうことが上述の真実を穿つ発言といったことだ。 しかしながら、一方、こういう内容を教諭、それも普通公立小学校の、が演説するという現実はありえない。 これがこのドラマのあり得なさの基本的枠組みである。 さらに、真実を穿っていると見えるその主人公の女教師の主張も、またありえないものとも見えてくるのは、確かに日本は一握りの特権グループが日本の命運を左右する体制になりつつあるにしても、そのグループが勉強のでき不できまるわけでもない。 こういう点が、このドラマの安易な虚構性であり、この部分で藁ってほしいのかとも思えてくる。

■「現在日本は6%の優秀な人間のみが特権的に幸せになれる社会で、これは勉強して勝利した者がなれる。一方、勉強もしなかっただめ人間は安い賃金労働者になる。」などというドラマでなかったら絶対放送禁止の命題のように見えるが、実はこれこそ近代日本の基本的理念だったのである。 もっとも6%か何%かしらんが。 

福澤諭吉、『学問のすすめ』。

この本こそ、

人間はみな等しいはずなのに、賢い奴・ばかな奴、びんぼう人・金持ち、といろいろいる。これはなんでだべ? 

そうだ、勉強だ。

といっている本である。

■しかしながら、現代日本の特権階層が勉強をその正統性の根拠としている気配はない。2世、3世の政治家はKOデーガクなんて大学に多く、かつ最近内閣総理大臣を輩出しているのは、学問のすすめなどではなく、近代封建制の賜物である。


封建制は親の仇&学問のすすめ


近代封建制の賜物&ワンフレーズのすすめ


スーパーフリーでーがくすっすん&学問って何?


▲ということで、よくわからんこのドラマ。落ちはどうなるのでしょう?

●このドラマ、ある種の救いのなさを打ち出すことを見込んで、エンディングの映像を作ってある。すなわち、ドラマ撮影の カット(終了) から天海はじめ各々の俳優が、おつかれさま~! と 素 に戻るシーンとなっていて、ひとむかし(ふた昔?)前のドラマの「このドラマはフィクションです」などいう野暮な文字表現はなく、かつ、素に戻るだけでなく、素としての俳優群が 素の役割 で踊るというシーンを、メイキング風に作って、エンディングとしている。

●つまり、それなりに、あるいは周到に、戦略的なドラマを作っているつもりらしい。 したがって、ドラマ放送打ち切りを望む視聴者の声は製作者の、べたな次元での、「想定の範囲内」であろう。もちろんそんな声に耳を傾けることなく、その騒動をきっかけにこのドラマをみた おいら のような奴による視聴率向上への貢献を、予想どおりとほくそえんでいるのだろう。それをふまえて、このドラマがなんなんだ!? ということを考えねばならない。