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▲機会不平等について。
一般的に制度はそのメリット、デメリットを勘案して存続なり廃止を検討せねばならない。
機会不平等のデメリットについて考える。
■思考実験■
前提:機会が均等な競争社会を仮想する。
(ここでは義務教育以上の学校→就職という職種のモデルケースを想定。学校にあまり関係ない、たとえば職人とか、それこそカリスマ美容師とかは想定外。)
仮に、教育と、社会での各ポストへの競争選抜の機会が平等に与えられることになれば、その結果を、機会均等という制度に与るはずのすべての国民が、甘受しなければならない。
つまり、入学の競争にせよ、就職の競争にせよ、機会さえ均等に配れば、その結果は正当なものとなる。もし奨学金制度などが完備した場合(もちろん選抜の機会も公平)、高学歴あるいはすばらしい職業技能などの好条件を得たものは、それは正当であり、引き続く就職や収入の好条件も正当とみなされるべきである。
なぜなら、競争は公平に行われたのであり、敗者は奨学金制度などが完備していたのにもかかわらず、勉強ができなかったからである。たぶん、怠け者だったり努力嫌いだったのであろう。せっかく機会が均等なのに残念だ。そんな「負け組」が時給600-800円の仕事をするのは当然である。なぜなら、彼らは機会が平等に与えられたにもかかわらず高学歴あるいはすばらしい職業技能を取得しなかったからである。
したがって、機会さえ均等に配り、競争して「勝ち組」「負け組」が形成され、所得格差が生じて当然である。なぜなら機会をうまく利用して競争に勝ったものが高収入を得るのが当然だから。
もちろん、「負け組」の次世代には機会均等用奨学金制度が準備され、競争社会のスタートラインにたつことができる。
■おしまい■
もちろんこれはおいらの主張ではない。機会均等を走らせたときの競争社会のシミュレーションである。
●では過去の日本社会の実際はどうであったのか。これはおいらの印象描写であるが;
戦後日本社会では、1980年代までは、高卒でも大卒でも、ある人は中卒もというが、収入はそうかわらなかった。イメージでいうとせいぜい30%というところか(後記*1)。なぜかというと、1960年代、1970年代と大学に行く家はやっぱり裕福な家だったのである。一方、金がないばっかりに行きたかった秀才もたくさんいた。つまり、大学に行けた恵まれた人は自分よりも優秀でも金がなくて大学にいけなかった同級生をたくさんみていたのである。なにより、社会や企業がそれをわかっていた。大学にいけなかった秀才は大手企業などに入り活躍した。重要なのは1960年代、1970年代は高卒だからといって「優秀ではない」ということがなかったのである。事実、1960年代、1970年代の一部大手メーカーでは当時の高卒者は、現在の大卒者よりよっぽど重要な業務をしている。
●すなわち、機会が不平等だったことが自明であったため、高卒でも大卒でもあからさまな格差がつけられなかったのである。
●家が貧乏だから大学に行きたくてもいけない人をなくすのがいいこと、と単純に言えるか?
もし、なくすと、高卒だけど優秀(貧乏だから大学いけなかった)という「隠された宝刀」の威力がなくなってしまう。高卒者は機会をやったにもかかわらず大学いかなかった。だから低収入でいいんだ、という言説に正当性を与えることになる。
(後記*1)データがあった。
社会学者が1955年から10年ごとに調査している「社会階層と社会移動全国調査」のデータを見ると、1995年における50代大卒男性と高卒男性の平均年収の格差は約1.5倍。中卒男性との差は2.1倍だ(「社会階層 豊かさの中の不平等」(原純輔・盛山和夫著、東京大学出版会、1999年刊)。
進む学歴格差、学歴マイノリティの生きる道は?より。