(「秀次殿を関白になされたのはもとより太閤殿下。) この片目の政宗に何が見通せたでしょう。」
--秀次謀反事件での政宗の言い分とされるもの--

■山崎訪朝
山崎訪朝はオーソドックスなものであると思う。話は40年前に遡る。佐藤栄作内閣で非核三原則を政府として打ち出すまでの過程。佐藤内閣は何も乙女の祈りのごとき夢想的平和主義的に非核三原則に至ったわけではない。それは中共の核実験の衝撃に対し日本がどうするかの必死の対応の結果である。
日本政府は、暗黙に、終戦時から原爆開発を検討、そして遂行しようとしてきた。正確にいうと、大臣は何も指示はしないけれど、官僚組織の中に核武装は日本国家の存立に絶対必要であると確信、狂信?、をもった一部の人たちが確実にいた。彼らがやったことは、ばかではないので、原爆開発でなはい。原子力技術の日本での確立と、飛翔体技術の開発・保持である。
繰り返すと、彼らは、ただのばかではないので、原子力の平和目的利用・平和目的の宇宙技術開発と方便、大嘘=高貴なる嘘(国家存続より崇高・高貴な目的があるだろうか!)、をついてきた。
考えてもみよう。東海村ではじめて核の臨界実験に成功したのは1957年(昭和32年) であり、実に三池闘争の1960年(昭和35年)前である。つまりは、石炭から石油へという時代に、必死に原子力開発をしていたのである。何も石油危機を見越して原子力発電に供えていたわけでもないだろう。ずばり、核・原子力技術を原爆開発の基礎愚術として開発してに違いない(物証なし)。
原子力政策を統括するために創設されたのが、今はなくなったが、科学技術庁である。動燃などを傘下に置く原子力・核技術統括官庁にほかならない。この科学技術庁の創設を一番必死にやったのが佐藤栄作で、背景には上記核武装準備官僚の駆動力があったのだろう。初代長官は、A級戦犯容疑者で、読売新聞の正力松太郎。
科学技術庁発足当時、日本政府として日本の科学技術を統括するのは(旧)通産省であり、傘下には該当の組織があった。つまり、なわばりあらそいが生じるのは必至であった。ところが、内閣は通産から原子力技術関連の部局を引っぺがし科学技術庁に編入した。これは、いつもは統括能力がなくボンクラな日本政府にしては異例なことで、これまた原子力・核技術への統括の意思がうかがえる。(というか、通産は科技庁事務次官の順繰りポストと引き換えたのだ。)
さて、核武装の技術的基盤整備を、暗に、進める日本政府は、この潜在的核武装能力をカードとして、原子力技術の確立と、飛翔体技術の開発・保持を進めてきた。つまり、米国に対し、平和!平和!おいらたち、ヒバクシャ!ヒバクシャ!と言って、平和目的の原子力技術と飛翔体技術の米国からの導入、共同開発、そして日本が原子力技術と飛翔体技術を開発することの承認、黙認を得た。もちろん、これは日本が核武装しないという身振り、約束が必須であった。
なにより、ヒロシマ・ナガサキの復讐をしない限り日本には核武装の必要は緊急的にはなかった。ソ連とはまがりなりとも国交が回復したので、ソ連が核保有国ではあるにしても、明日核戦争が起こるとは思っていなかった。それは、今日現在北京政府の核ミサイルが明日飛んでくるとは思っていないのと同じである。
話は1964年。日本には核武装の必要は緊急的にはない、という状況が激変した。それは敵対していた中共、北京政府が核実験に成功したからである。
マオさん、文革、核武装
つまりは、現在の北朝鮮は1965年の中共・北京政府と同じなのである。1965年以降、日本政府が北京としたことは今では誰でも知っている。同じことを北朝鮮にもやればいいと思っているのが、独眼龍、山崎拓センセにほかならない。彼は何も片目が見えないから世界が見えないのではなく、角栄以来の#民党の本義に従い行動しているのである。
中共核武装で、大叔父の栄作チャンは、非核三原則をぶちあげた!
さて、アベチャンは、北鮮核武装で、何をぶちあげてくれるかな?
▼PS; 2ちゃんで中川八洋センセが、その昔、科技庁の原子力なんとか課の課長補佐に任じられていたとあった。ホント? もしそうなら、上記に書いた;
正確にいうと、大臣は何も指示はしないけれど、官僚組織の中に核武装は日本国家の存立に絶対必要であると確信、狂信?、をもった一部の人たちが確実にいた。
の傍証になる。
--秀次謀反事件での政宗の言い分とされるもの--

■山崎訪朝
山崎訪朝はオーソドックスなものであると思う。話は40年前に遡る。佐藤栄作内閣で非核三原則を政府として打ち出すまでの過程。佐藤内閣は何も乙女の祈りのごとき夢想的平和主義的に非核三原則に至ったわけではない。それは中共の核実験の衝撃に対し日本がどうするかの必死の対応の結果である。
日本政府は、暗黙に、終戦時から原爆開発を検討、そして遂行しようとしてきた。正確にいうと、大臣は何も指示はしないけれど、官僚組織の中に核武装は日本国家の存立に絶対必要であると確信、狂信?、をもった一部の人たちが確実にいた。彼らがやったことは、ばかではないので、原爆開発でなはい。原子力技術の日本での確立と、飛翔体技術の開発・保持である。
繰り返すと、彼らは、ただのばかではないので、原子力の平和目的利用・平和目的の宇宙技術開発と方便、大嘘=高貴なる嘘(国家存続より崇高・高貴な目的があるだろうか!)、をついてきた。
考えてもみよう。東海村ではじめて核の臨界実験に成功したのは1957年(昭和32年) であり、実に三池闘争の1960年(昭和35年)前である。つまりは、石炭から石油へという時代に、必死に原子力開発をしていたのである。何も石油危機を見越して原子力発電に供えていたわけでもないだろう。ずばり、核・原子力技術を原爆開発の基礎愚術として開発してに違いない(物証なし)。
原子力政策を統括するために創設されたのが、今はなくなったが、科学技術庁である。動燃などを傘下に置く原子力・核技術統括官庁にほかならない。この科学技術庁の創設を一番必死にやったのが佐藤栄作で、背景には上記核武装準備官僚の駆動力があったのだろう。初代長官は、A級戦犯容疑者で、読売新聞の正力松太郎。
科学技術庁発足当時、日本政府として日本の科学技術を統括するのは(旧)通産省であり、傘下には該当の組織があった。つまり、なわばりあらそいが生じるのは必至であった。ところが、内閣は通産から原子力技術関連の部局を引っぺがし科学技術庁に編入した。これは、いつもは統括能力がなくボンクラな日本政府にしては異例なことで、これまた原子力・核技術への統括の意思がうかがえる。(というか、通産は科技庁事務次官の順繰りポストと引き換えたのだ。)
さて、核武装の技術的基盤整備を、暗に、進める日本政府は、この潜在的核武装能力をカードとして、原子力技術の確立と、飛翔体技術の開発・保持を進めてきた。つまり、米国に対し、平和!平和!おいらたち、ヒバクシャ!ヒバクシャ!と言って、平和目的の原子力技術と飛翔体技術の米国からの導入、共同開発、そして日本が原子力技術と飛翔体技術を開発することの承認、黙認を得た。もちろん、これは日本が核武装しないという身振り、約束が必須であった。
なにより、ヒロシマ・ナガサキの復讐をしない限り日本には核武装の必要は緊急的にはなかった。ソ連とはまがりなりとも国交が回復したので、ソ連が核保有国ではあるにしても、明日核戦争が起こるとは思っていなかった。それは、今日現在北京政府の核ミサイルが明日飛んでくるとは思っていないのと同じである。
話は1964年。日本には核武装の必要は緊急的にはない、という状況が激変した。それは敵対していた中共、北京政府が核実験に成功したからである。
マオさん、文革、核武装
つまりは、現在の北朝鮮は1965年の中共・北京政府と同じなのである。1965年以降、日本政府が北京としたことは今では誰でも知っている。同じことを北朝鮮にもやればいいと思っているのが、独眼龍、山崎拓センセにほかならない。彼は何も片目が見えないから世界が見えないのではなく、角栄以来の#民党の本義に従い行動しているのである。
中共核武装で、大叔父の栄作チャンは、非核三原則をぶちあげた!
さて、アベチャンは、北鮮核武装で、何をぶちあげてくれるかな?
▼PS; 2ちゃんで中川八洋センセが、その昔、科技庁の原子力なんとか課の課長補佐に任じられていたとあった。ホント? もしそうなら、上記に書いた;
正確にいうと、大臣は何も指示はしないけれど、官僚組織の中に核武装は日本国家の存立に絶対必要であると確信、狂信?、をもった一部の人たちが確実にいた。
の傍証になる。