愚ブログでの横浜散歩;シリーズ。今日は基本編。今まで山下公園に行ったこともなく、氷川丸に乗ったこともなく、大桟橋も行ったこともなかったので、基本を押さえる。おいらが初めて横浜に来たのが、2006年。当時はつくばに住んでいた。横浜見物は史跡探訪であり、明治維新関連史跡だった。特に、幕末の英仏軍駐屯ということに興味を持って、見物に行った。もっとも、先の大戦敗戦後は横浜港関内地域はほとんど米軍に占領されていた。この記事では、横浜散歩の基本、中華街、山下公園、大桟橋、みなとみらい地区での画像を貼って、後半では、終戦後の(拾った)画像を貼って、現状と比較してみる。
1石川町駅、2中華街、3山下公園、4大桟橋、5赤レンガ倉庫、6みなとみらい
1 JR石川町駅
2 中華街
中華街は店や売り物の新陳代謝が早いと思う。2006年に来た時は中華鍋を多量に売っている店があった。今はそんな店はない。
3 山下公園
ホテルニューグランド(wikipedia)
▼ 山下公園
▼ 氷川丸
入場料300円。
機関室
三等客室
氷川丸から出る。
ノーベル賞研究者としては、小柴昌俊、下村脩が乗船したことがあると展示してあった。
New York行きの RAW SILK
氷川丸は1930年から就航。太平洋航路。一方、生糸の輸出事情は下記;
ソース ソースの解説= 日本の生糸輸出額は明治の初期から増え続け、昭和の初期が最大となった。1900年頃は中国を抜いて世界一の生糸輸出国となり、生糸を輸出して得たお金で様々な機械を購入するなど、日本の歴史において重要な役割を果たしてきた。生糸がなければ、我国は日露戦争も2度の世界大戦も戦えなかったであろう。
「生糸で稼いだおかげで戦争ができた」ので、氷川丸は戦時中は病院船に、敗戦後は引き上げ船となる。
再び山下公園。
赤い靴はいてた女の子の像(wikipedia)
インド水塔(wikipedia)
4 大桟橋
5 赤レンガ倉庫
遠くから見ただけです。
6 みなとみらい地区
三菱重工ビル。1993年にできたらしい。
桜木町駅付近
● 番外
帰りは横浜駅の高島屋のイノダコーヒーに行って、レモンパイを食べた。
敗戦後の横浜
みないとみらい地区は埋め立て地とわかる。右図は占領時代の画像。
1945-1950のある時点での航空写真。山下公園は建物があることがわかる。この画像に映る一帯はほぼ米軍占領地域。
①山下公園、②大桟橋、③中華街、④横浜球場。上の航空写真と方向は逆(海が下)だが、米軍占領地域(着色地域)。中華街③は米軍に接収されなかったとわかる。
横浜戦災焼失地域 (ここからの孫引き)
戦災焼失地域を見ると興味深いことがわかる。ホテルニューグランドがある山下公園の横の地域が戦災に遭っていない。残った建物は米軍に接収され利用された。
現みなとみらい地区の三菱重工業株式会社横浜造船所(横浜船渠 wikipedia)が戦災に遭っていない。港湾施設も戦災に遭っていない。一方、関内地域は焼き払われ、敗戦後米軍駐屯地となっている。これは、下記の事例と類例なのであろう。
横須賀は、もちろん、日本海軍の最大級の軍港であった。先の大戦ではいくども空襲は受けた。ただし、軍港設備や市街を大規模に破壊する戦略爆撃は受けていない。なぜか?多くの人が気づき、おいらも考えるには、戦後の米軍による利用を見越した上で、「温存」したのであろう。
なお、敗戦後GHQの司令部となるビルなどがある有楽町ー丸の内(ブルジョア村)も戦災による完全破壊から免れている。これも米軍の戦略的「温存」であるに違いない。
山下公園
横浜球場が確認できる。焼き払われた後は米軍兵舎が建てられた。
三菱重工業株式会社横浜造船所(横浜船渠 wikipedia)ドックには船がいる。戦災にあわなかったので、活発に利用されているとわかる。
航空写真は国土地理院のweb site の1945-1950の航空写真より得た。