いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

横浜散歩:石川町駅⇒ 山手イタリア山庭園⇒ 横浜マリンタワー⇒ 馬車道⇒ 野毛山公園 ⇒稲荷台小学校

2024年02月23日 17時34分30秒 | 東京・横浜

横浜を去ることになった。横浜でまだ行っていない場所は多い。横浜有名地基本編[1]でも行けなかった場所として、横浜マリンタワーがある。行ったことがなかった。さらに、山手イタリア山庭園の洋館にも入ったことがなかったので、行くことにした。歴史探訪としてホテルグランドの玄関の写真を撮りたかった。一方、有名ではないし、行っても痕跡はないであろう史跡である「稲荷台小学校」=昭和天皇の戦後巡幸初日の訪問地に行くことにした。したがって、その間を歩いた。

[1] 横浜散歩;基本編、中華街、山下公園、大桟橋、みなとみらい地区

1.JR石川町駅、2.山手イタリア山公園、3.山手商店街、4.横浜マリンタワー、5.馬車道、6.野毛町、7.野毛山公園、8.稲荷台小学校

■ 1.JR石川町駅


JR石川町駅のホームから外交官の家が見える。

■ ⇒ 2.山手イタリア山公園


Google Map

明治13(1880)年から明治19(1886)年まで、イタリア領事館がおかれたことから「イタリア山」と呼ばれています。イタリアで多く見られる庭園様式を模し、水や花壇を幾何学的に配したデザインの公園で、整形花壇では四季折々の花、植栽を見ることができます。また、テラスからは横浜ベイブリッジやみなとみらい21を一望することができ、写真や絵画のモチーフとして人々に親しまれています。
フランス瓦の屋根の「ブラフ18番館」は平成5(1993)年に、とんがり屋根の「外交官の家」は平成9(1997)年に、移築復元されました。

山手イタリア山公園 web site

▶ ブラフ18番館

▶ 外交官の家

ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治政府の外交官内田定槌氏の邸宅として、明治43(1910)年に東京渋谷の南平台に建てられました。 設計者はアメリカ人で立教学校の教師として来日、その後建築家として活躍したJ.M.ガーディナーです。
建物は木造2階建てで塔屋がつき、天然スレート葺きの屋根、下見板張りの外壁で、華やかな装飾が特徴のアメリカン・ヴィクトリアンの影響を色濃く残しています。1階は食堂や大小の客間など重厚な部屋が、2階には寝室や書斎など生活感あふれる部屋が並んでいます。これらの部屋の家具や装飾にはアール・ヌーボー風の意匠とともに、19世紀イギリスで展開された美術工芸の改革運動アーツ・アンド・クラフツのアメリカにおける影響も見られます。外交官の家

内田 定槌(うちだ さだつち):豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)出身。1889年(明治22年)、東京帝国大学法科大学を卒業し、外務省試補となった。翌年、上海副領事となり、漢城領事、ニューヨーク領事、同総領事を歴任した。1906年(明治39年)にブラジル弁理公使となり、翌年に特命全権公使となった[3]。その後、スウェーデン公使に就任し、デンマーク公使、ノルウェー公使も兼ねた。1920年(大正9年)、トルコに派遣され、のち大使に昇格した。wikipedia

■ ⇒ 台地を降りて、山手

⇒ 横浜ウォッチャー: 石川町「かき氷店 小桃」パフェのようなかき氷が大人気!国産イチゴにこだわる「小桃ちゃん」が絶品

▼ 大丸谷震災地蔵尊


Google Map

▼ 元町ショッピングストリート

■ ⇒ 横浜マリンタワー


中村川

■ 横浜マリンタワー

展望台入場料、1,100円。

横浜マリンタワー 公式 web site

横浜マリンタワー(よこはまマリンタワー)は、神奈川県横浜市中区山下町にある、横浜開港100周年記念事業として建設されたタワー。横浜のシンボルのひとつとなっている。

旧横浜居留地(山下居留地)の東南、横浜港フランス波止場跡(山下公園中央部)とフランス橋の間に位置する。かつては灯台としても機能していた。1961年1月15日開館。wikipedia


瑞穂埠頭(米陸軍管轄埠頭)。 接収日:昭和21年4月15日(横浜市web site)

上陸艦


さっき行った山手イタリア山庭園を見る。 ↓その遠望

赤煉瓦で象徴される新埠頭地区は、1910年代に建設された。「建設費用はアメリカに支払った下関戦争の賠償金がアメリカから返還され、これを充てた」(wiki)。

■ ⇒ 5.馬車道


ホテルニューグランド 1927年開業(wikipedia

マッカーサーは1945年8月30日に「厚木」に、子猿も連れて、飛来。その晩は横浜のホテルグランドに宿泊。3-4泊して、山手のC.マイヤー邸(google)に滞在した。そして、1945年9月8日に東京入城を果たした。しかし、その晩は横浜に帰ったのだという(根拠)。ところで、マッカーサーは1937年に新婚旅行からフィリピンへ帰る途中このホテルグランドに泊まった。つまり、8年後、横浜は灰燼に帰していた。ただし、このホテルや港湾地区を除いて。それにしても、マ元は1937年から「I shall return to be the SHOGUN」だったのだろうか?


第11空挺師団の米兵

タイル模様の柱がそのまま。中央のタイル模様の柱は撤去されたとわかる。階段が微妙に変わっている。

■ ⇒ 野毛町


大岡川。弁天橋を渡る。

■ ⇒ 野毛山


日本中央競馬会ウインズ横浜

▶ お昼


ハラミペパーライス:ダイニング×ダイビング リコモ(google map

■ ⇒ 7.野毛山公園


坂を登り、振り返って図書館をみる

水道みち(横浜の水道は野毛山にあり野毛山貯水場跡で歴史を知ろう
下の凹凸図で2つの赤矢印の間が(/も)水道みち。2つの谷を越えている。


振り返って野毛山動物公園方面を望む。尻こすり坂(google map)。


県営藤棚団地(google

■ ⇒ 稲荷台小学校

この坂を昭和21年2月19日に昭和天皇が上った。その日は敗戦後の全国巡幸の第1日目だった。この坂を登った先には、戦災者共同住宅があった。そこを訪問したのだ。戦災者共同住宅は、横浜市稲荷台国民学校があったが、1945年・昭和20年5月19日の横浜空襲で焼失する。その焼跡に戦災者共同住宅が建てられた。現在は、横浜市立稲荷台小学校。

愚記事:昭和の成仏のために:横浜市立稲荷台小学校、元戦災者共同住宅、昭和天皇、戦後巡幸第1日目


航空写真(左:1945-1950年)、現在の航空写真(右)。〇印が上記坂

■ 通過街

横浜市:
中区
石川町、山手町、元町、山下町、日本大通、本町、太田町
西区
桜木町、野毛町、宮川町、老松町、西戸部町、藤棚町、

 



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