水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷想中・迷走中・1391」

2024-10-25 20:50:07 | Weblog

ある気功師・1002


「混合」


オーケストラによる交響曲は協和、調和している。
それぞれの一つ一つのパーツが他と調和する。
全体として一つにまとまる。
だが、地球交響曲は違う。


調和だけではないのだ。
協和だけではないのだ。
不調和、不協和音を含めている。
その他を含めて、地球、自然、宇宙、いのち、なのだ。


最初から一つの「いのち」として融合してなかった。
今でも多種多様の「いのち」のままだ。
とても優しいグレちゃん(創造主)は、
「地球を一つのいのち」にしなかったのだ。
「地球を多くのいのち」の集まりにしたのだ。
そこに「混合」の理由がある。




(本館は、HP「気の空間・気功療法院」検索
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「迷想中・迷走中・1390」

2024-10-24 20:48:13 | Weblog

ある気功師・1001


「混合」


龍村師匠は今の日本には稀な本物のヨガ行者であり、
あらゆる方面の指導者を育成指導するプロの導師だと思う。
だが、プロフェッショナル・ヒーラーではない。
私は(弟子だがヘナチョコすぎて)ヨガ行者にはなれない。
だが、プロフェッショナル・ヒーラーになってしまった。
(このへんの説明はいずれ・・・)


その龍村師匠の実兄に映画の龍村仁監督がいた。
「地球交響曲・ガイアシンフォニー」の監督だ。
ギャラクシー賞受賞の1992年に第1番を完成。
その後継続して撮り続け2021年には第9番が完成。


多種多様なモノ達が集まり、交響曲として地球を奏でる。
地球という星は多種多様なモノ達の「いのち」の歌だ。
一つ一つの「いのち」の声。
そして、それぞれが共生して出す声は「一つ」として聞こえる。
生物も鉱物も見えないモノも時間も空間も仲間だ。
そんな事を観せ、感じさせてくれる映画だ。




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「迷想中・迷走中・1389」

2024-10-23 20:31:44 | Weblog




ある気功師・1000


「混合」


私の場合、氣功師と治療師がヨガで融合解放し、
治療師からプロヒーラーの世界に入ってしまった。
30年間の精神世界を彷徨した経験も融合された。
多くの重病難病の方々から直接学ぶ事が融合された。


治療とヒーリングの違いと重複部分。
プロとアマの違いと重複部分。
氣功とヨガの違いと重複部分。
もう、アマチャアには戻れない自分になっていた。


ダライ・ラマ法王(ヒーラー最高峰)にもお会いできた。
私がどんなに不マジメで根性無しでも、
プロフェッショナル・ヒーラー側になってしまったのだ。
治療師は努力でなれるが、ヒーラーは努力ではなれない。
(能力は誰にでも使えるし伸ばす事もできるが、別の要素が必要)




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「迷想中・迷走中・1388」

2024-10-22 21:04:09 | Weblog

ある気功師・999


「混合」


氣功師の体に変えてくれた故御師匠様がいた。
私にはもう一人師匠がいる。
求道ヨガを中心にして「総合健康」を示した龍村師匠がいる。
体と心だけじゃない、ホリスティックな健康講座だ。
東京の龍村道場に通った3年間は、濃縮した時間だった。


当時40歳を過ぎ、妻子がいて新たな道に入ったから、
何事も10倍の濃さを意識して学んだ。
私のような性格でも3年は何とかなるものだ。
あの3年間(だけ)は30年間分だと、今でも自信がある。


師匠が紹介する多くの先生方は各治療分野の名人達だった。
「間接で数年学ぶより、5分直接会うだけでいい」
龍村師匠の師匠様の故沖先生の言葉らしい。
「氣」というものからなら、この言葉の真実が理解できる。
ホンモノの雰囲気と内容を教授していただいた3年間。
「治療」の深遠な部分を直接見せていただいた。
様々な治療法のそれぞれに素晴らしさが輝いていた。




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「迷想中・迷走中・1387」

2024-10-21 21:25:41 | Weblog




ある気功師・998


「混合」


自分の道以外にも深遠な道がある。
(私の道は軽薄浅慮だけど・・・。
私の趣味だぁ。ほっといてもらおう!!)
今までの世界の他に、深遠な世界がある。
だから「絶望」はこの世には無いのだ。
他に多くの道があるなら、多くの未来もある。
出会わなかっただけなら、これから出会えばいい。


全てを知る事は出来ないし、知りたくも無い世界もある。
だが、それぞれに深遠な部分がある事は認める。
他にも道がある事を認めるだけで充分だ。
あとは・・・「縁」が何とかしてくれる。
胸を開けば、触ってくれる。
(う~m・・・この表現はモンダイがあるかも
上品にいえば、叩けよさらば開かれん)


一つの道を追い求めるのは「こだわる」ためじゃない。
深くなれば、底でつながっている事に気づく。
他の道を同時に知り、認めることなんだ。
この世は「混合」という事実に意味がある。
この世はとてもヒネクレた構造になっている。




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「迷想中・迷走中・1386」

2024-10-20 20:44:40 | Weblog




ある気功師・997


「混合」


「一つ」の世界だけを信じる事は、
自分で自分を縛り、他を認めない生き方だ。
それは自分をも認めない生き方だ。
自分を虐待する、マゾの生き方でもある。


自分だけなら趣味の問題だから、モンクはないが、
自他の混合世界を認めないと、一つに統一したがる。
それはとても不自由で暗い世界になる。
そんな世界で生きたいとは思えない。


「混合」を認める、知る、気づくというのは、
「他の奥深さ」を想像する事でもあり、畏れる事だ。
「これが最高!」「これしか無い!」「○○を超えた!」
これらは自分の内部に思う言葉であっても、
単純に他に言う言葉じゃないと思うよ。
(無知と無謀だった私自身の経験を書いてます。
他人の無知と無謀は微笑ましいものです)




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「迷想中・迷走中・1385」

2024-10-19 20:30:00 | Weblog

ある気功師・996


「混合」


「この世は混合」という「事実」を認める。
それだけで道が広がる。
道が開ける。
未来から光が届く。


「科学的」という世界しか無かったら、
科学的な判断以外の道が無い。
とても狭い道しか歩けない。
閉ざされてしまうと、他の道が見えない。
(一応お断り:私は科学的を認めてます)


「正しさ」という基準の世界しか無かったら、
「間違う」と落ち込み「間違い」を非難する。
「正しさ」が一つなら、圧倒的に「間違い」が多い。
そんな暮らし難い世界にして、何が幸せなんだろう?
基準はいろいろある、という「事実」を認めれば、
「正しさ」なんてアホらしい(言いすぎたかなぁ?)。




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「迷想中・迷走中・1384」

2024-10-18 20:51:51 | Weblog




ある気功師・995


「混合」


この世には何でもある。
自分の想像以外のものまで、ある。
多種多様を全て知り、全て体験は出来ない。
私は神様じゃない。
こんな当たり前を軸にしていないと、いずれコケる。
軸はブレると、揺れて倒れるものなんだ。


「混合」の世界。
何でもアリの世界。
チョウもアリの世界。
人間もアリの世界。
アリの世界の母体は、アリのママ。
だから「ありのまま(当たり前)」に生きると、
次の世界を知り、体験できる生き方となる。


「混合」は「混合」そのものに意味と意義がある。
「自」だけの世界から「他」の世界に移る事ではなく、
「他」の世界を「プラス」する世界に住む事だ。
「自他」の世界があるなら「一体」の世界もある。
ならば、「自」「他」「一体」の世界に広げればいい。
常に「プラス」していく世界の観方。
それは自由に行き来できる「やわらぎ」の生き方でもある。




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「迷想中・迷走中・1383」

2024-10-17 20:45:42 | Weblog

ある気功師・994


「混合」


未熟な自分が当たり前だと慣れているからこそ、
天才や達人を体験しても、天狗のままでいる事はない。
つまり貧乏や未熟やタダのオッサンに慣れる事は、
私のような立場ではプロでいる要素の一つなのだ。
常に自分の未熟を意識するから次に行ける。
(いや、貧乏は・・・ちとツライぞ・・・)


奇跡が奇跡と思っているようでは世界が広がらない。
天才や達人がスゴイと思うようでは、他の役に立たない。
(自分がスゴイと思うようでは、という意味です)
法則やコツが自分のモノになったと思っていては、
その先の世界を観る事ができないのだ。


達人からタダのオッサンに戻るから明日がある。
これが、この世の落とし穴なのだ。
自分が高みに上がったと思った時は落ちている。
一つの境地になったら、未熟な自分を取り戻す。




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「迷想中・迷走中・1382」

2024-10-16 21:18:43 | Weblog




ある気功師・993


「混合」


霧が晴れる時期がある。
魂が浮く時期がある。
目の膜が取れる(ウロコが落ちる)時期がある。
その時はそう思ってしまうのだが、
実は別(次)の世界に入ったばかりなのだ。


そこで留まれば、その世界のままだ。
そこで留まらなければ別(次)の世界に行ける。
だから何度も霧が晴れる事を体験する。
何度もウロコが落ちる。(半魚人だったのね・・・)
何度も天才・達人を体験できる・・・。


慣れというのは何にでもある。
本妻の太さが「普通」に思える。
崖っぷちが散歩道に思える。
火の車が常用車(乗用車)だと思ってしまう。
目からウロコや耳から耳○ソは当たり前になる。




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