alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

気にしない?

2012年01月19日 | 福島見聞録

 今日こそは 日常の生活に戻ってみたい
そう思ってカフェに行ったりしてみたものの
隙ができると頭は福島やら放射能やらのことを考え
なんだかやっぱり落ち着かない。
なんだかビフォーアフターみたいで
もとの何事もなかったかのような生活には
簡単に戻れそうにはないらしい。


 「放射能は目に見えないし匂いもしないし感じない
だからそれが怖いんです」とインタヴューでよく耳にした。
「放射能が炎だったり赤かったりしたらよかったのに!
そしたら怖くなってもっと必死で逃げようという気になれた」
とも聞いた。そうして脱原発会議では 「こういうこと。」
というコピーとともに描かれていた 子供が砂場で
遊ぶ姿に、赤く塗られた放射能が降り積もってる。
「ほらね 放射能に色があったらよくわかるでしょ」という
そんなポストカードを見て愕然とした。そ そういうことなのか、、、


 意識しなければ「ない」ように思えてたものが
意識し始めると 「どこにでもある」ように思えて来て
こうなるともう頭がおかしくなってきそうだ。
どれくらい対策したらいいのだろう?水で落ちるっていうけど
どれくらい落ちたかなんてどうやったらわかるわけ?
何分くらい洗えばいいの?じゃあバッグは?制服だったら?
それに加えて「プルトニウム」なんて言葉まで目にしてしまうと
もうどうしていいのかわからない。放射線量の高い地域に
行った私のカバンはどうなっているのだろう?
それに息子がさわったら?何かがついていくのだろうか?
それを息子がなめたなら?「プルトニウム??目に見えないし
内部被爆はそれらを計る事もできないだって??」と思ってしまうと卒倒しそう。
だけどそれはただの想像かもしれない。
別に何も 普段と変わらないのかもしれない。
私の知識が中途半端なだけであって カバンについた放射能くらい
どってことなくて 線量の高いところで使った何かを
息子に渡す時 に いちいち気にする必要なんてないのかもしれない。


 だけど私にはわからないし それは目に見えなくて匂いもないから
「ある」といわれればある気もするし「気にさえしなければない」
ようにも思う。100人のうち一人がガンになる確率がある と
例え言われても「でも99人はガンにならないわけでしょ?」と
思う事だってできるだろう。他の多くの雑菌のように 放射能だって
人間の身体と共存することはできるんじゃない?とも思いたくなる
「ちょっとぐらい大丈夫だよ、、、」そう 子供がころんで
ちょっと土に手をついて それをパッパっとはらうだけ で
例え子供が手を洗わなくても 私は別に大丈夫、 雑菌がある方が
きっと強い そう思うような親だった。そしてそんなで育った息子は
汚いことが大好きだ。お風呂の水は気づけばゴクンとしてるし
おかずだって時折手づかみで食べてるし しょっちゅうどこかで転んでる。


 だけどそんな普通の子供の日常に「放射能」とか「プルトニウム」とかが
まぎれこんできたのなら 母親は普通ではいられなくなる。
そうなったら目に見えない敵のため に 相当神経質になるだろう。
「この戦いは神経戦だ」と確か誰かが言っていた。
それを聞いたころはわからなかった。だけどそういうことなんだ。
そしておそらく母親が神経質で潔癖に近くなればなるほど
(見えない「菌」か「放射能」かというので言ったらやっぱり
人から見たら「潔癖」という言葉がピンとくると思う。
例えば外の床に触れたものは家の中には持ち込まない!とか
見えないものと戦っている点では「菌」とか「ウィルス」と似ていると思う)


 そうしてどんどん諦めたくなる。雑菌と同じと思いたくなる
「大丈夫だよ ちょっとくらい それに大切なのは
やっぱり免疫力なんじゃない?心配しすぎが一番よくない、、、」
そういって 「放射能に対して払わなければいけないとされてる
注意」を 全て振り切りたくなってしまう。いちいち産地をチェックするのも
マスクをするのも なんでもかんでも洗ったり 沢山のものを捨てること も
たった一週間程度のノロウィルス対策にだって 私はやりきれなかったのに
それよりも神経を使い かついつ終わるとも全く知れない
そんな放射能に気をつかって生きていく事 これは並大抵の事じゃない。


 先日他のブログでみたけど「人は自分の信じたいものを信じる」
のだそうな。私は福島ではさんざん山下教授という「年間100ミリシーベルト
までなら大丈夫!」と言い通している教授への批判を聞いて来たけど
(そして聞いている時は全くそうだ!ありえない!と思っていたけど)
「問題ありません」と言われる事で 安心したい たとえそれに
100パーセントなんて信頼感はなくっても それでも
「大丈夫です 考え過ぎです 考え過ぎが一番よくありません」と
(福島の産婦人科の先生たちはこんな言い方をするらしい)そういわれたら
まあそうか そうかもな 私がちょっとやりすぎだったのか
もう少し自分を許してあげよう そこまでしなくてもいいじゃんか、、、と
思いたくなるのだろう。だけど家に帰って自分の持っている本を開くと
真逆の事が書いてある。「放射能は人間とは共存しえない!」
「年間1ミリシーベルトでも本当は危険だ、、、」


 そんな中 で どうやって 子供と一緒に生きられるだろう?
それがなくても 子供といるのは大変なのに だからといって
避難をしても それが母子だけになってしまうと かつ保育園も
なかったら それはかなりしんどいだろう。それはつまり
働くこともできないわけで 一日中子供と一緒で 唯一の救いだった
かもしれない 旦那さえも帰ってこない。働きたくても
いつまでそこにいるのかもわからないから 働こうにも働けない、、、
そのうち避難先でも違う種類のストレスや無力感みたいなものが
自分を襲いはじめていくのだろう。まわりの人は日常生活を送ってるのに
まわりの人は働けてるのに 日常が日常であるほどに
その日常が普通の人と 自分との温度差みたいなものを感じて 
そこにいるのに 自分は遠い そんな気がしたりする、、、
(私はフランスに行ってやたら泣いてましたがその意味が
福島で出会った人の話を聞いてわかった気がしました)

 避難をしている人も 福島に残っている人も みんな
不安やストレスを抱えてて だけどそれをただ 批判もなしに
話ができる場というのもないらしい。もしかすると それは
福島の人だけでなく、放射能に強い注意を払ってる人と
もう別にいいやと思ってしまった人たちの 激しい温度差なのかもしれない。
放射能 は どれくらい恐ろしいものなのだろう?
「山下教授の支配下にある福島のお医者さん」たちが声を揃えて
言うように「心配のしすぎが一番よくない」というのも
なんだかわかるような気がする。こんな状態で毎日の生活を
送っていたら ノイローゼで先に倒れてしまうんじゃないだろうか?
どれが正しい事なのか は だれにも今ではわからないから
どっちも激しく折り合わない。私個人は 放射能のことを
気にし始めると怖すぎて頭がおかしくなりそうだから 帰国してから
なるべくそういう本も読まないで過ごして来たし 実際
知ったら頭がおかしくなりそうになってどうしていいのかわからない。
だからまわりの人たちのように 何事もなかったかのように
「そんなこと全然気にしない!」という態度でやっていたい と
思う一方 メールを見たり自分の買った本を読んだり
フェイスブックから流れてくる情報をみると
「やっぱりそんな場合じゃない!」と思ってとても恐ろしくなる。


 「何も気にしないのが一番よ」って言われたら
それもそうかなと思うけど。本当に気にしないでも何も起こらない
そんな所があるのなら 私はそこで何事もなかったように暮らしていたい
(でもおそらく東京はそんな時期じゃなくなってくるような気がします)

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