alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

福島との関わり方

2012年03月08日 | 福島見聞録

 「もう考えるのをやめたんだ。」

 それが投げかけた質問に対する はっきりとした返答だった。
どうして彼は東京に居続けることができるのだろう?
私には不思議で仕方なかった。だから私は彼に尋ねた。

「みきちゃんには未来があるから避難した方がいい。」

爆発の後、どうしたらいいのか不安で仕方なかった私に
沢山の有益なアドバイスを暮れた大学時代の友人は
西日本の驚くほどのんびりした雰囲気の中で一人
パニックになってた私にフランス行きを勧めてくれた。
「頑張ろう!日本!!」のかけ声の中、そんなのありかと
思ったけれど 彼は「未来があるから」と言ってくれた。
それが私には本当にありがたく 命の恩人のようにすら思えてた。
フランスに行って何週間かしたときに 「ほらね!
みきちゃん、プルトニウムが発見されたよ!あー今
もうフランスなんだね ほんとよかった、、、」と電話口から
彼の安堵する声がきこえた。


 福島に行ってから 顔をつきあわせて話す機会は
なかったけれど いろんな事実を知った後 彼に
「一体どうしてそれなのに東京にいられるの?」と
尋ねてみたら 前述の答えが帰って来たというわけだ。

 「だってそうしないとこんなところで生きられないよ!」
そう まったくその気持ちはよくわかる。私は福島に
行ってから体調を崩し、1ヶ月に2回も寝込んだので
そして友人たちによれば「それは放射能云々じゃなくて
考え過ぎ!」ということなので もう考えるのをやめにした。
私も普通に戻りたかった。もう放射能なんてなかったことに
すればいい。いちいち気にして外食をしたら 何一つ美味しくない。
だいたい内部被爆をしていたところで 私は今こうして
東京にいられる喜びの方が大きいように思えるわけで
「避難!」「命!」「放射能!」ただそれだけで 
全てを一気に捨ててしまって 見知らぬ土地で新生活ができますかって
私はそんな器ではないと思う。だいたい今頃面白そうに思える
京都にしたって 5年もいたのに全然なじめなかったじゃないか、、、


 私が達した気持ちの上での結論としては 長期的には
避難を考えた上で、今は多少のことはしょうがないので
もうなかったことにして(そうプルトニウムも放射能も。
だって気にしてたら気が狂うのがよーくわかった)もう
マスクだってしたくない(だって1日中してた後に
インフルエンザにかかったりもしたわけだから)
だったら免疫力を高めて いつ終わるかわからない
人生をもうちょっと前向きに楽しんだ方がいいではないか?
放射能がどんなに怖いものであっても その影響が来るより先に
精神的な抱え込みはもっと人をむしばんでいく
(だから私はミスター100ミリの言うこともまんざら嘘ではないと
思わなくもない、、、「心配し過ぎが一番良くない」)
私は自分の体験を通してそう思ってしまったから
彼が結論づけたように「考えることをやめてしまう」
もう福島さえも 忘れてしまう それが私の身体にとって
一番いいのではないか と 思っていたわけなのだけど。


 ところがどっこい 今朝カフェにいてメールをみてたら
フランスの電子版の雑誌がもう今日から買えるという。え?
フランスはまだ8日になってないのに?いや、午前0時を過ぎたのか
ということは、マリークレールが発刊だ!!と
電波の弱いカフェだったのに 無理矢理電子版を取り込んで
どこどこ?どんな?と思って記事を探し当てたら載っていた。
「福島の子供達は避難すべきか?」という カラー5ページの記事だった。


 難しいジャーナリスティックなフランス語を読みながら
あーこれを載せることにしたんだなあ ああこれは印象的だったなあ
ああこれは本当に映画の最後みたいなシーンだったなと
沢山のことを思い出し 何行かごとに 福島でやたらと感じた
鳥肌のような 身体がゾクッとする感じがやってきて
だんだんとその世界に入ってしまう。嗚呼ソフィ、、、やっと
忘れかけていたのに、、、久しぶり に また 頭がそのことで
一杯になり やるべきことが山ほどあるのに「これ訳さなきゃ!」と
思ってしまう。勢いでお世話になった人に電話をしたり
フランスにメールを書いたり ああ また福島モードになってしまった、、、


 記事の中にはこう書かれてた。「もう生活を複雑にするのは嫌だと
思った人たちが 忘れるという決断をする」そう人生をシンプルに
するために。放射能 放射能と言っていたら どんなにそれが
大事なことでも たくさんの亀裂を生んで 関係性が苦しくなる。
そこで抱えるストレスと 話すのをやめるストレスと 避難を選ぶストレスと?
沢山のストレスの中で天秤にかける。そしてソフィーはこう問うていた。
彼女にとって 記事の最後はもう決まってた。日本にやってくる前に。
「それがあなただったら?あなたならどうする?」


 私は?私だったなら?福島から帰った直後、私はもう避難!という
モードになった。放射能についてもやたらと調べた。そして
たくさんの亀裂を生み出し 頭はおかしくなりかけて 生きることが
無理そうになってきた。だって子供の靴にプルトニウムがついてたら?
そんなこと考えながら生きられるように きっと人間はできていない。
だから私の身体は私の頭にストップをかけ なんと2回も「もうやめにしろ!」と
言って来た。そうして元気になった今 忘れたい とこなのだけど
何事もなかったかのように それに東京もおもしろそうだ
そう思う自分がいる一方で 時折いろんなことを思い出し
ドキッとする自分も存在している。それだけじゃない。
なんだか私は ちょっと責任を感じてしまっているんだな。


 本当は 母だったなら 息子に対する責任を 一番に感じてたら
いいはずなのに 私はこういう性格だからか 社会的責任みたいなものを
ちょっと勝手に感じてて 今回も2回記事を読み たくさん感動した後で
ああ、でもあれについては述べてないのか あああれらは割愛されたのか と
「その他のもの」になってしまった 沢山の時間や人を思い出し
「この取材で一冊の本が書けるね」と言われてた 10日間の
ソフィーの取材は たった5ページ。5ページってそれはすごいことなのだけど
でも一緒にずっと居た者からすると 5ページか、という気もしてしまう。
沢山の人がいろんな想いで彼女に話をぶつけていった。でも
雑誌には制約がある。しかもマリークレールはファッション誌。
見せ方にもこだわらなきゃいけない。すると1ページは写真になって
記事本文は4ページ。しぼりにしぼりにしぼりにしぼって 4ページになるわけだ。


 簡潔に書くということ 

 それはフランスではかなり大事にされてることらしい。
それはよーくわかるけど でも 字数が制限通りになれば
全てがうまくいくわけじゃない。そのために失うことだってある
そう 焦点を合わせるために 抜け落ちる物語は沢山あって
それは写真のセレクトと同じことだけど

 でも 福島に関していったら 私には全てが衝撃的だった。
テレビも雑誌もラジオも映画も たくさんのものを撮り
その一番いいセレクトだけを載せていく。それはそうなんだけど
指の間からするすると 砂粒のように抜け落ちて行く
物語の中にだって たくさんの想いや感情や人間模様が存在してる。
でもそれらはそこでは書かれない。撮影されても載ることはない。


 福島の物語 は カフェの物語にやっぱり似てる。

 たくさんの人の想いがあって 沢山の人の人生がある
だけど彼らがいくら感動しても いくら言いたいことがあっても
それら小さな物語 は なかなか紡がれることはない。
私は通訳だったけど 全ての記憶が私の脳みそから消される前に
書き留めておこうと思った。それはまさに見聞録というタイトルそのもので
見聞きしたことを備忘録的に書き留めておくものだった。
書いたなら 忘れてもいい でも書かないで忘れることは
私にはできそうにないことだった。だから私はひたすら書いた。
その中には ソフィーの記事からは抜け落ちたけど
おそらく2人の頭の中に焼き付いている様々なシーンもあったと思う。
ソフィーは記事では日本政府の対応や福島県や学校側の態度について
ほとんど触れてないけれど 彼女だって折に触れて怒ってた。
でもそれら は 記事を記事として一本の筋を通すために
きっと選択されなかったのだろう。


 紡がれない物語 を 紡ぐこと
書くことにどれくらい意味があり 書くことが何かを変えることになるのか
私にはまだわからないけれど やっぱり1つ感じることは
私は一人の日本人として 大切なものを見てきたらしいということだ。
ソフィーの記事もちゃんと出た今、私も物事をみてきた人として
自分なりの立ち位置をもう少し考える時かもしれない。
それはまるごと忘れてしまうのでもなく かといって考え過ぎで
体調不良になるのでもなく 120パーセントの力は注げないけれど
何か もっとおどろおどろしくない力を使って ネガティブじゃない
力を通じて 何かできることがあるのなら
私もそこに加わりたい。誰か 黒船に頼るだけじゃなく
書くということを通して自分にもできることがあるのなら
何かできたらいいのだけれど。まずは記事の翻訳か!

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