alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

フクシマの声

2012年01月14日 | 福島見聞録



 今日は脱原発会議。どういうわけだか
この名前を知ったときから楽しみで
これはかつての 京都会議みたいになるんじゃないか
なんだかとても面白そう!と これに行く事に関しては
私がかなりソフィーに勧めて 今日は2人で行って来た。


 福島で沢山の女性と子供たちと時を過ごして
家に帰って蓮太郎と時を過ごしたら もう他人事では
なくなって 彼女たちの話を聞いたり 思い出したり
これが蓮太郎だったら と思うと本当にそんなことに
なるくらいなら 原発なんてもういらないと心底思う。


 「たかが電気じゃないですか。電気を作ったり
サービスをしたり そんなことのためにここまでの
苦しみを味わわなくてもいいと思う」と今日出会った
グリーンピースの人が話してくれた。そう たかが
電気を得るために ここまで苦しむ必要はない。
彼女たちも そして子供たち も 本当に苦しんできた。


 岩手かどこかに避難をかねて遊びに行った子供たちは
「雪に触れる」というそのことに とても喜んでいたという。
私が見た郡山市の子供たちは 室内の大型施設で
身体をおもいっきり動かして ぴょんぴょん跳ねて喜んでいた。
福島市の子供たち は 何をするにも「これは触っていいの?」と
聞くらしい。雪が降った日 子供にあって「わー雪だねえ!
嬉しいねえ」と言いたかったけどそんなことすら言い出せなかった。
だって彼らはもう雪が降っても嬉しいことなんて何もないんだ。
雪に触ることもできない 雪で遊ぶこともできない
ただ触れないで 家の中から覗くだけ。それだけの我慢をしている
それだけ子供が親の言う事を聞いている それだけ でも
なんだかとても切ないと思う。


 「福島に県外から来た人たちが決まって言うことがあるんです。
それは意外と普通に日常を送っているということ」今日講演会で
こんな話を耳にした。だけどその裏に隠れている 苦しみや
悩みというのは 福島に来た1日目には 私にはさっぱり
わからなかった。あれ?意外とマスクしてない。マスクって
しなくてもいいのかな?干し柿とか売ってるんだ、、、


 だけどその後 沢山の話をきいて 干し柿が名産なのに
今年は放射能の影響なのか やたら美味しそうにふんだんに
実がなっているのに 誰も手をつけずに熟した柿が柿の木から
落ちそうになった状態で たわわに実っているということ。
マスクにしても みんな当初はしていたけれど 真夏には
暑すぎてもう耐えられない!とやめた人が続出したこと
「今の願いは何ですか?」という質問に「事故の前の生活に
戻りたい、なんだか戻れるんじゃないかという錯覚に陥ることもあるけど
絶対にそこには戻れない」とみんなが言うこと
そして彼らが国からも県からも 見捨てられたという感覚を持っていること
それまでは信じていたのに もう何を信じていいのかわからない
それでも何かを信じたくって 一筋の希望や期待を
外国から来た記者に少し感じていること
日本を変えるのはもうここからでは無理だから
どうか外からなんとか力をかけてくださいと思っていること。


 そう 福島の人たちは さんざんいろんなことをしてきた
国にも沢山のことを求めた。霞ヶ関にだってやってきた。
郡山市の中学生の集団疎開を求めて裁判だって起こしたりした。
だけど結果は散々だった。福島に講演をしに来る人や
NGO関係者らは 避難をしろとか年間5ミリシーベルト以下でも
危ない!!と言い続けるのに 政府は20ミリなら大丈夫とか言っていて
それを県はいい事にした。そうだって 県の放射能対策の
トップにたった山下という名の教授とやらは 事故の直後に
「100ミリシーベルト以下なら問題ありません」とラジオで
言い続けていた その人本人なのだから。
そして彼の息のかかった県の医者たちに放射能の不安を話しても
ほとんど聞いてもらえないという。「甲状腺のガン以外には
関係性が認められていません」という。そんなありえない国の政策に
福島の人たちの声を聞かない政策の国の下に県があり その下に
市があるわけで だから県や市は 除染はしようとするけど
他は「安全」ということにする。本来は 国や市は
自分たち を 守ってくれそうなものだったのに。


 それが自分の子供だったら?それが自分のことだったなら?
自分が内部被爆をしていたら?私はもっと 東京にホールボディカウンターが
あったらいいと思う そうして沢山の人が自分の状況に気がつけばいいと思う。
もし自分も 福島の人と大差ないくらい本当は被爆していたら?
自分は子供を産めるのだろうか?子供を産んでいない人は?
子供を産もうと思えるだろうか?自分の娘が被爆していたら?
それでも「大丈夫 問題ありません」なんて言えるのだろうか
食品の測定器だって もっとまわりにあったらいいんだ。
いつも食べているこの食品はいったいどれだけ汚染されているのだろうか
どうして私は横浜にいて フランスにも居たというのに
セシウムが検出されたのだろう ここで流通しているものは
「東京だから」と思っている人たちは何気なく食べているものは
いったいどれほど 本当は汚染されているのだろう?
国会議員がまず一人ずつホールボディカウンターで内部被爆を計ったら
少しは何かが変わるのだろうか?


 結局ものごとが変わらないのは お金の問題もあるけれど
彼らにとって「福島」が他人事であり きっと目の上のたんこぶみたいに
見えるからなのだろう。だからもう 終わった事にしてしまいたいという
気持ちになってしまうのだろう。だけど本当は東京の人にとっても他人事じゃない。
福島の人は私たちよりちょっと先に苦しみがやってきただけで
きっともう少ししたら 私たちにもいろんなことが現れるだろう
その時きっと首都圏の人たちも おんなじことを言うのだろう。
「もっと早く知っておけばよかった」知識が人を守ることもある。
原発と放射能の怖さをわかっていた人は 爆発の前に避難した。
それは東電の社員ですらそうらしい。そう 彼らは知っていたんだ。
内部被爆が何なのか 原発が爆発したらどんなことが起こりうるのか
この先日本がどうなるのか 私にはわからないけど
こんな苦しみをもう持続させないで済むために もし
デモをして 歩くだけ で 何かが変わるというのなら
私もそれに参加しよう。やれること が何なのか
私にはわからないけど もっと人間が人間らしく生きれるために
やれることがあるのなら 私もできる限りやっていきたい。


 明日も脱原発の会議に行きます。
内部被爆に関しても相当学べるそうです。
今の福島や今後のエネルギーや対策に興味のある方、
本当にいろんな人や情報が集まっているのでぜひ
パシフィコ横浜に足を運んでみてください。
入場料払う価値がありますよ!

旅立ち

2012年01月13日 | 福島見聞録



 福島で沢山の人に会って来て約1週間の滞在が過ぎ
はじめて降りた福島駅の西口の階段を1週間ぶりに上りながら
ソフィーとこう話してた。「ここに来たときは私たちは
何も知らなかったね。意外と普通なんだな って思ったけど
その下に隠されているものについてもわかってなかった。」


 福島市に住む人たちの現状がなかなか触れられていないというのは
いろんな理由があるにせよ、そのうちの1つに
複雑すぎてわからない というのもあるだろう。
私はたまたま外国から来たジャーナリストと一緒だったから
もともと長く滞在する予定だったけど 日本人の
記者だったら  こんなに長くは居ないのだろう。
でも福島は1日じゃなかなかわからない。いろんなことがからみ過ぎてて
インタヴューをしてみても 初めて聞いたりだとか
耳にはしていても それがつまり何であるのか
どういう仕組みで動いているのか 何を意味していることなのか
わからないことが多すぎる。

 ホールボディーカウンターって何のこと?
外部被爆と内部被爆はいったいどう違うんだろう?
内部被爆の方が重要だというのなら、低い線量だったら
外にいても大丈夫ってこと?外部被爆は内部被爆に足されるものなの?
年間1ミリシーベルトって 毎時でいうとどれくらい?
放射能と放射線は何がいったいどう違うの?
郡山の人は福島市より低いしって言っているけど、毎時0.6
マイクロシーベルトって大丈夫なの??
どれくらいのセシウムだったら食品に含まれててもいいんだろう?
暫定基準の500ベクレルってどれくらい?(ちなみに暫定というのは
「飢饉のような非常事態に食べても仕方のないレベル」のことらしい)


 インタヴューをする度に そして誰かと会う度に
私たちは質問を投げかけてった。除染をしてたら大丈夫なの?
たしかにそうだと言われたら 校庭の除染が1回だとしても
それがちゃんと長期間でももつのなら 部活をしたって
かまわないような気がしてしまうけど。でも許容範囲といえる
線量というのはいったいどれくらいなんだろう?
それにどうして福島にはすべてのこんな疑問に答えてくれたり
不安に答えてくれるような窓口や場所がないのだろう??


 福島にいる人たちも 私たちと同じように ほとんどの人は
はじめは何にも知らなかった。呼吸をしてもいいのだろうか?
他の人が洗濯物を干しているなら私も干したっていいのだろうか?
それからカフェででてくる飲み物は?あったかければただの
水よりちょっとはましといえるのだろうか? それとも
ミネラルウォーターを使ってくれてたりとかするのだろうか
あまりにも疑問があって それに答えられるような疑問もあるけど
答えの出ない疑問も多い。

 
 そんな中 で 何を判断基準にしたらいいのかもわからないまま
もうすぐ1年がたとうとしていて 福島県は「安全宣言」をしたらしいので
それに沿った市も教育委員会も「努力もしてるし安全」ということにして
日常生活を戻そうと それはつまり 何事もなかったような
日常生活を戻そうと やっきになっているらしい。
(ちなみに福島市は妊婦さんや乳児に対して特にこれといって
放射能に関する調査や講座などを開いたりはしていないらしい。
2月からようやく内部被爆がはかれるようになるらしいけど、、
ちなみに市内の学校でも特に放射能に関する授業とかもないらしい)


 私たちは今日南相馬の避難区域の境界線のところに行ったのだけれど
その近くで仮設住宅の建設ラッシュが始まっていた。
「これはどんな人たちのための仮設住宅なんですか?」と
尋ねてみると「原発の事故で避難してた人たちが戻ってくるため」の
住宅らしい。そこは20キロ圏内のとこからすぐ近く。
確かに線量で計ったらそこまで高くはないのだけれど(場所にもよるけど)
福島からまだ県外に避難する人がいる一方で 福島県は
県外に出た人たちを「安全」といって戻そうとする。
それは子供たちを守るための活動をしている人たちからしてみると
「命よりもいつも経済活動が優先」にしか見えないらしい。
経済活動、そして何事もなかったかのようにとりつくろってる
その姿勢は東電も国もJR西日本も同じじゃないか!と私には思えてならない。


 「これから社会を変えていくのは女たちですよ
とくに子供のいるお母さんたち」と言う言葉 を 何度も
福島で耳にした。お母さんたちにインタヴューして彼女たちの気持ちを
沢山聞いてる 私たちも 母であり だからそれがよくわかる。
フランスでも原発の反対運動をがんばっているのは女たちらしい。
そして避難を決めていくのも女たち。


 「あなただったらこの状況でどうしますか?」
と福島の人たちにソフィーは何度か聞かれてた。

 「私はまさにそれを考えたくてここに来たの。でも
まだ答えはでないわ。」とソフィーは言った。

 私は今日久しぶりに笑顔のかわいい息子に会って
もしこの息子が目の前で異様な鼻血を出したら?
私だったらそれで即 脱出することに決めるだろう。
そう それに 実際のところ 私はいろんなことが怖すぎて
西日本にいたくせにフランスに行ってしまったのだ。
だから脱出するのだろう。「もしもう一度爆発のような
大事件が起こったらフランスに行くかも」と思ってたけど
背中をドン!と押すような 大事件というのは今度は
爆発ではないのかも。私の中に放射能が存在している
それが蛍みたいに お腹の中からやんわりと光を放ってる
それを想像するだけで本当に怖い。「線量計を大人は
地上1メートル、子供は地上50センチのところで計るのは
その位置は性器の位置で、放射線がどれくらい性器の位置に
とどいているかを計るため」なんだと測定所の人が言っていた。
自分の身体の中からすでに細胞が破壊されているかもしれないというのに
その上息子が鼻血を出したら?
それはもう 私にとっては きっと脱出になるのだろう。


 人それぞれに事情があって 私の場合は前から
フランスに行く準備をしたりしていた。地震の後、爆発の前に避難した人は
前から相当原発の怖さについて知ってた人か まわりに
そういう人たちがいて 「とにかく逃げろ!!」と言われた人たちだった。
それから約1年が過ぎようとして なんとなく「安全」に見えてしまう
日常の中で 今 この時に 避難という決断をするのはより一層難しい。
もはや部活は外で普通にやっているのに?
福島市のある中学校では生徒600人中で避難した子供は10人だけしか
いないらしい。避難を支えるサポート組織の人は
最近はめっきり応募する人が減ってしまって驚いていると言っていた。
そんな中 で背中を押すのは難しい。


 毎時0,2マイクロシーベルトでも 避難をした方がいいのだろうか?
本を読めば読む程怖くなるし 講演会に行けば行く程恐ろしいけど
まわりには日常が存在している。テレビでも学校でも もう
放射能について騒いでいない。もう収束したんじゃないか?
私の気にし過ぎだろうか?それとも?それとも国や県が
私たちを見殺しにしているだけなのだろうか、、、
だけど本で過去のことを学ぶと そう 事態は収束なんてしてない
事態が悪くなっていくのは きっとこれからのことなのだ。
「大丈夫 と思って気にしていなかった」人たちが これから
どうなっていくのかなんて 誰にも何もわからない。
本当に大丈夫ならそれがいいけど その「大丈夫」がもし
「原発の安全性 絶対に大丈夫」と同じくらいの「大丈夫」なのだとしたら
そこには何の保障もない。。。


 「福島のことを忘れないでください」と目に涙をためながら
語ってくれた人がいた。「一人でもわかってくれる人が
伝えてくれようとしている人がいて嬉しくて」と彼女は言った。
「避難するのは後ろめたい気持ちもあるんです」でも
そんな中で彼女は決めた。私もソフィーも言いたかった。
ある決断を下した後には きっとその決断を下すまでに
ずっとぐるぐる悩んでどうしようもなく苦しくなって
ただ泣くしかなかった そんな状況から脱出できる
そうしてただもう 前を向いて進むしかなくなって
そのうちに道が開けてくると。


 「私たちに必要なのはイマジネーションなんだって
あの人が言ってたわ。イマジネーションっていうのは
他の人生を想像できるかどうかっていうことじゃないかと思うの」
そう その時一緒に居た人も言っていた。「仕事をやめて福島を出て行くのを
決めるまでは後ろばっかり向いてたんです。今までの生活とか
どう守っていくかばかりが気になって。でも決めてもう
進むしかないって決断をしたときに いろんな人たちに出会ったんです
そして最後にマリークレールの人にも出会えただなんて!」
そうして私たち3人は そこで出会うことになり
女同士 居酒屋でなんだかすごく共感しあった。決断するまでは
本当に辛いけど きっとその後 今までの人生とは違った何かが待っている。


 沢山の人が いろんな事を思い悩んで 最後の最後に
決断をする。残る人も これから他県に旅立つ人も
子供を連れて 見知らぬ土地に行く人も。
旅立ちはいつだって不安だらけだ。 果たしてやっていけるのか
いったい何が待っているのか 子供は受け入れてもらえるだろうか
だけどきっと たくさんの辛い時を過ごした後で 沢山悩む時期から
何か決断を下した後で 違う人生が待っている。
それは過去のものとは決して同じではないだろうけど
いいことだってあるのだろう。辛い決断をした私とソフィーは
何の縁だか国境を超えて偶然出会った。そしてまた
私たちは福島で 沢山の尊敬できる 勇気ある女性に出会った。
守りたいもの 大切にしたいもの 建前でなく
本音の部分で これだけは譲りたくないというもの
それを大事にしてなんとか自分でやろうとしている
そんな女性に沢山出会った。沢山の辛い話がある中で
そんな中で彼女たちは変わっていった この先どうしたらいいのかなんて
誰も教えてくれないけれど 自分で道を開くしかない
そんな道に直面している けれども前を向こうとしている
だから私たちは出会ったのだろうか 福島から何かが変わる
そしてそれは もっと大きなうねりや共感を
きっと必要としているのだろう 孤独な中で一人でもがく
彼女たちの声というのは 決して特異なものじゃない。

 もっと幸せな未来のために もっと一人一人が
誰かと違ってもいいことを 自分の考えを言える事が
できるような未来になるために いったいどうしたらいいのだろう?
明日あさっては横浜で脱原発世界会議が開かれます。
福島の現状、生の声が知りたい方はぜひ足を運んでみてください。

他人事じゃない

2012年01月12日 | 福島見聞録

 なんだかなかなか眠れない のは
昨日飲んだ 美味しいコーヒーのせいなのだろうか。
それとも理由は他にあるのか 多分もう1つのほうだろう。


 フクシマ というものに 私が興味を持って
なんだか自分ごとのような感じになっていったのは
私の場合は仕事で行くことになったからというのが大きくて
いったいどういう状況なのか それからフランス語で書かれてた
コンタクトをとるということになっている人たちは
どんな組織でいったい何をしている人なのか
そういうことがわからないから 勉強しよう 知ってみようと
そういう気持ちが強かった。


 原発のこと?フランスに居たときはかなり興味もあったし
ニュースがあったらなるべく理解しようとはしてた。
日本に帰って日本語のニュースに飢えてた私は本屋さんで
情報を読みあさったし 今どうなっているの?と議論した。
その時話した男の子 が こう言ったのをよく覚えてる。


 「みきさん なんだか浦島太郎みたいですね。
2ヶ月前くらいはみんなそういう話をしていたけれど
最近はすっかりしてないですよ。なんだかちょっと懐かしいなあ」
それは7月のことだったから 彼によれば 東京に住んでいる
彼のまわりでは 5月くらいからはもう原発が話題ではなくなったらしい。


 本当かよ?と思ったけど 私もその後2週間くらいしてみると
そんな色に染まっていって 彼の言った通りになって
帰国直後はやたら誰とでもそんな話をしていたけれど
そのうちしなくなっていた。


 だからフクシマ というものに 再び興味を持つまでに
何ヶ月か 私にとってはなんだか普通な 特に夏の節電モードが
終わった頃から 何事もなかったような もういろんな事を
忘れてしまう そんな生活を送ってた。



 そうしてこの仕事の話があって、どうしてもやりたい!と思い
それからいろんなことをまた調べ くる直前に ようやく
福島の活動などの見取り図がちょっとわかったような気がして
それにセシウムの値が上昇してるといわれているのに
その中に入り込むことになっていたから 福島というものが
だいぶ自分ごとになってきた。


 インタヴューをするにつれ 沢山の人と関わり
目の前にいる人たちが 「まさかそんなはずないよね?」と
思いながら質問をした「何か身体に変化を感じたりしたことはありますか」
というものに「あります」と答えたことに 私は驚きを隠せなかった。
「例えば?」とソフィーは聞いてくる。フランス人ジャーナリストは
しっかりと痛いとこまで突いてくる。「例えば身体がだるくて学校から
帰ってきても寝てしまったり、鼻血がでたり、疲れやすくなったり、、、」
マスクをしながら質問に答えてくれる彼女に ソフィーはこう聞いてくる。
「マスクはいつもしているの?」「1回やめたけど今はしてます」
「どうして?」「夏くらいには本当に暑かったし嫌になってやめたけど
姉妹3人で被爆量を検査したとき 一番下の、保育園で外遊びをしてない
子は低かったけど 私が一番高かったから」


 そう そうやって 数字をみて 数値というものに驚いて
行動を変える人たちがいる。昨日は母乳で赤ちゃんを育てている人に
ソフィーはこう質問をした。「母乳の検査はしましたか?
母乳から放射性物質が出たという話もきいたことがあるんですが、、」
質問をしながら私もまさかないだろう、子供の尿からセシウムとは
きいたことがあるけれど それだってきっと少人数に違いない、と
思ってた。ところが質問を受けた彼女はこう言った。

「はい あります。」


 「その時はショックでしたか?」「ショックでした」
「数値はどれくらいだったんですか?」「これくらいでした」
「それはどんな数値だったんでしょうか 高いのか 低いのか
心配のないレベルなのか、、」「はじめは数値だけみても 高いのか
低いのか それが何を意味しているのかもわかりませんでした。
でもこれを見て、先生は1ヶ月間数値を下げる努力をしましょうと言いました。
それでリンゴとかリンゴジュースを飲んだり ペクチンのあるものを
とったりして、、、そしたら1ヶ月後にはセシウムが0になったんです!」


 この話は印象的で 目の前にいる笑顔の素敵な彼女が実際にそういう経験を
したということ、そして放射性物質を排出することができたということ
どちらもとても驚きだった。そう 福島では食に対する意識が高い人は
めちゃくちゃ高くて(私たちはそういう人にしかあってない)
彼女たちは 野菜はだいたいインターネットで買っていて
決まって言うのは西日本か九州か 北海道の野菜ならいい。
でも福島近郊のは関東も含めてなるべく買わない ということだ。
私たちが地元のスーパーで声をかけた買い物中のお母さんですら
同じことを言っていた。そして彼女たちの多くはそれまでは地産地消派だったのだ。


 「がんばろう福島!」ののぼりの横で 福島の野菜を応援している店もある。
スーパーでだって宣伝している。その横を私はなんとも言えない気持ちで通る。
私たちが出会った人たちはほとんど福島どころか東日本の野菜を食べてなかった。
一方で野菜を売りたい人もいる 福島にいて そんなに意識をしていないと
いろんなところで出てくる料理はおそらく福島産のものだろう。
それに一瞬ドキッとしないこともないけど(例えば誰しもが口をそろえて
水道水は飲まないというけど 外食をするしかない私たちが
食べに行って出される水はミネラルウォーターのわけがない)
誰が悪いわけでもない。誰も悪気なんかなくって 事故の起こる前までは
そういうことになっていたのだ。30年有機栽培をやっていたけど
畑を捨てた人だっている。それまでは地産地消 で 福島の野菜に
誇りを持って お米だって知り合いからもらってああ美味しいね と
食べていた そんな人たちが地元の農作物から離れていった それは
彼女たちにとっても簡単なことじゃないだろう。


 数値 が 人を変えるのだろうか


 誰だって知らないでいたい 知れば知る程こわくなるから。


 「今怖い事はなんですか?」という質問に 郡山の人はこう答えてた
「怖い事 こわいこと ねえ、、、特に今これ!っていう感じはないけど
しいていうなら忘れそうになることがこわい。みんなけっこう日常生活を
送っているし 放射能は目にみえないから 洗濯物とか外に干してるのをみると
普通の生活が送れるんじゃないかって思っちゃう。こんなことしなくても
いいんじゃないかって」「それを引き止めるものはなんですか?」
「数値  ですよねえ、、、それを見る度にやっぱりもう元の生活じゃないって思う。」


 野菜の数値を計りにいったり 時には「ホールボディカウンター」
というもので 自分の内部被爆を計ったり。「ホールボディカウンター」は
福島市では今現在ではまだ使えるところは少ないらしく、昨日は
ついに毎日耳にする「ホールボディカウンター」を見る事ができた。
ソフィーが写真をとるのに絵にならないから、ちょっとこの子を
座らせてもいいかしら?と聞いて、いいですよ と言われたので
コートを脱いで座ってみる。最近私ものどの調子がなんだかよくないし
細胞が気持ちよくないような気がしてるので 本心ではこのまま
計ってほしかった。すると係の人がやってきて じゃあ計っちゃいましょう
名前は、、、?と聞いてくれる。どきどきして結果を待ったら


 なんと私の身体の中にも セシウムが検出されたのだ。

つまり 3ヶ月フランスにいて 7月から横浜で無知な状態で
特に気をつけずに生活していた 私は内部被爆をしていたということ。
しかも数値はおそらくこの施設の人たちの表情からすると
「意外と高いね」という感じらしくて かなりショックを受けてしまった。


 それから福島の人に話すとみんな「え えー!!!」と
彼女たちがショックを受ける。あなた神奈川に住んでいるのに?
ホールボディカウンターは内部被爆を計るものだし
福島に5日くらいいたって外部被爆はそんなにないって
ソフィーだってフランスの放射能関係の施設の人に言われて来たし
福島の人も「今は線量はそう高くない」と言っている。
この数値 だけ見てみたってそれが高いのか 低いのか
いったい何を意味しているのか わたしにもさっぱりわからなかった。
まさに朝出会った彼女が言ってたように。
施設の人は「福島の平均よりは低いですね」とそれだけ言った。
なんせこの機械は福島にだって今はほんのちょっとしかないから
関東の人の平均なんてわかりようがないらしい。
それでも以前神奈川からきた高校生も「ちょっと寄っていきなよ」
といわれてやったらセシウムがけっこう出たらしい。


 ショックを受けてる私に福島の人がこう言った。
「放射能には放射能と放射線っていうのがあってね
ベクレルっていうのはたとえばお米1つぶの中に
放射能がどれくらい入っているからしいんですよ。
蛍でいうと蛍が放射能であの光が放射線。放射線を
計るのがマイクロシーベルトで、つまり飯田さんが
やったのは牛とか野菜みたいにあなたの中にどれだけ
放射能が含まれているかを検査したってことなんですよ」

 そうか そういうことだったのか、、、


 でもそれはとても恐ろしい。

 放射能は細胞を老化させていくらしい。
そうして元気だった細胞が弱っていって
かんたんに治る風邪でも長引くそうな
これが兆候?どれが兆候?それともただの勘違い?
私たちにはわからないし お医者さんは曖昧なことしか言わない。
数値が出ても それが何を意味するか じゃあどうしたらいいのかは
あんまり誰も教えてくれない。私の細胞は 私の身体は
これからどうなっていくのだろう 身体の中に
放射能というものがある それを思ってみるだけで
恐ろしくって眠れない。神奈川にいて「普通に」生活を
していた私は 「福島の人の平均よりは低い」程度に
内部被爆をしていたらしい。首都圏にいるみなさん
私はたまたまこの機械に座らせてもらえる機会があっただけ で
おそらくこれは 他人事じゃ本当にないですよ。

 とにかく今日からリンゴを食べて
なんとか排出の仕方を教わろう。。。

 どうかみなさん、「大丈夫??」なんて
他人事のように心配しないで 自分もそうであるかもしれない
そのことに気づいてみてください。
本当に 福島は他人事ではない ということです。
 
 

福島で見聞きしたこと

2012年01月11日 | 福島見聞録



 福島に来てから今日で4日目。
もう15人以上の人と話してなんとなく
今までよくわからないでいた福島の今置かれている状況が
特に福島の女の人たちが置かれている状況が
わかりかけたような気がする。

 書く というのがいいことなのか
それともよくないことなのか 私にはわからないけど
彼女たちは 話を聞いてくれる場がほしいのだ と よく聞いた。
彼女たち だけでなく 活動家の人たちも
いったん話をはじめると 話したくて仕方がない。
誰かわかってくれるだろうか 誰かこの状況を
もう少しでもよくしてくれるだろうか
「日本は外圧に弱いから って言っておいてくださいね」とか
ソフィーの帰り際になると多くの人が フランスのメディアに
期待してます 日本ではできないことをやってください
そんな気持ちで最後に一言 話してくれる。


 福島において常識になっていること
福島において一般的な認識になっていること。

 それらはおそらく 他の多くの地方においては
そう一般的なことではなくて だから状況を理解するのに時間がかかる。
私も勉強しなかったわけじゃないけど 彼女たちの話は
かなり専門的で 誰一人 資料を見ては話さないのに
的確な数字を知っている。そうして私たちも学んでいった。
測定器はどう使うのか その数字は高いのかそうでもないのか
数字がどんな意味をもつのか 年間1ミリシーベルトというのは
毎時で表すと何マイクロシーベルトになるのか
自主避難とはなんなのか 今のところどれくらい補償があるのかないのか

 まだまだ理解するのは難しいけれど 多くの一見普通のお母さんたちは
声をそろえてこう言っていた。「私も事故の前は何一つ知らなかったんです
チェルノブイリも名前くらいしか知らなかった。」私たちが
彼女たちの知識に驚いて「どうしてそんなに知ってるんですか?」と尋ねてみると
「必要にせまられて」と答えてくれる。特に子をもつ母親たちは 子供のために
必死で動いてる。給食に自分の家からお米を持たせる人もいる。
玄関にはマスクの箱が。料理をするにはミネラルウォーター
魚も肉もなるべく食べずに 放射性物質を排出する効果が高いといわれる
伝統的な日本食をがんばってみたり バナナとか皮付きのリンゴとかを
試してみたり。


 子供たちが遊べるところはめっきり減った。保育園でも園庭には
ほとんどいかない。小学校や中学校でも外にでていい時間は短縮されて
楽しみにしていたイベントも中止になったり体育館での開催になったりだとか。

 子供たちはフラストレーションがたまってる。マスクなんてしていたくない。
特に夏は熱すぎたからマスクなんてもう嫌だ!とやめた人が続出したらしい。
だけど彼らがまた気をつけるようになったのは 自分がいかに被爆していたか
あとになって数値で知ってショックを受けて やっぱり大切なんだと思ったから。
それでもマスクをするのはほんとうに面倒くさい。そんなフラストレーションが
たまった子たちのために、昨年の12月に郡山市は子供たちが無料で遊べる
東北一大きな屋内プレイランドを地元のスーパーとボーネルンドの協力で
作ったらしい。そこには飛び跳ねてげんきそうに遊ぶ子供、子供!!
みんなぴょんぴょんして楽しそう。絵本コーナーになんて誰もいない。
みんな体を動かして遊びたいんだ。屋内の砂場コーナーさえもあり
それをみてると少し切ない。福島市や 郡山市は除染をがんばっているけれど
そして「除染しているから大丈夫」と言おうとするけど
除染に懐疑的な人も多いらしい。実際のところ した直後は
放射線量が半分くらいになるけれど そのうち風やらほこりやら
空中にまっていたものが戻ってきて あまり変わらなくなるそうだ。
それに加えて郡山ではじめて除染をした学校の横にはそのあとの
土が積まれて そこの線量を計った人によれば、なんと8.7マイクロシーベルトも
あったというのに子供たちはその横で遊んでいたそうな、、、



 福島にはいろんな種類の人たちがいて あまりにひどかった地震の
直後に真っ先に原発がやばい!と思って爆発の前にすでに避難した人も
いたらしい。私は知らなかったけど その時はけっこうパニックに
なっていたらしい。地震も余震もひどくてとにかくライフラインを
確保したいけど水もなければガソリンもない。食料を買うために
水を得るために 余震のおそろしさに子供を一人で置いては行けない
お母さんたちは子供を連れて一緒に並んでいたそうな。

 その時彼女たちにはなんの情報も入ってなかった
だからそれを今悔やんでいる人もいる。あの時無駄に子供に
被爆させてしまったこと そのときどうして政府が「大丈夫です
ただちに健康に問題はありません」なんて言い続け
御用学者みたいな人が 突然ラジオで何度も「年間100ミリシーベルト
までなら大丈夫」なんて言い始めたのか。だけど彼女たちは
わからなかった だってその時 福島に居た人たちだって
日本の多くの人たちと同じで原発の恐怖も 放射能についても
何一つ知らなかったんだ。原発のある同じ県に住んでいたとはいっても
そんな教育なんてされてなかった。それに浜側は遠いから
他県のような気がしていたんだ だって私たちにはあの原発は
何一つ恩恵を与えてくれていなかったから、、、


 原発の恐ろしさを知っている人たちはとっさに逃げた。
「仕事があるから」といった娘の旦那に「あんたねえ
仕事と命とどっちが大切なの!!」とどなりつけた人もいた。
そんな人たちは爆発の日よりも早く脱出を決めていた。
「あの原発なんてねえ津波がきたらやられちゃうんだよ」
そんな話は昔から居酒屋で酔っぱらったときにたまに話題になってはいたらしい。
だけど福島の人たちにとっても 原発は遠い出来事だった
すべてが変わってしまった日までは。


 原発の事故はすべてを引き裂いた。


 それによって話ができなくなってしまった人たちもいる
それによって関係が悪くなって もう口をつぐむことにした
人たちも居る 人それぞれに想いはあるから 本当は
心配なこともあるから 話をしたいこともあるけど
それができる場所のない人も多いらしい。
だから何かの活動をして 誰かの家で集まって
気を楽にして話せる人は それだけでとてもありがたいと言っていた。


 「話す事を コミュニケーションをやめてしまったら
人はどんどん孤立化していく。だからグループセッションを
するんです」そういって大阪から応援しにきている
心理学者の人もいた。気を楽にして、ただ思った事を
感じてることを話せる場所をもつこと 誰かがそれを
聞いてくれること それだけで 何かは変わってゆくのかな
インタヴューは終わらない。彼女たちは話したい
もっと聞いてほしい声がある もっと知ってほしい現実がある
避難の辛さも それをするという決断も そして残って
気をはりつづけて生きる辛さも。

 福島の問題は 決して福島だけの問題じゃない
これからもっと多くの範囲で 変化が起こっていくだろう
その時知識をもっていること ちゃんと防御できていること
対策を自分でやっていること それがきっと身を守る。

 すでに変化は起きている そして福島に暮らす人たちは
もうすでにやれることはやっている これからは
いろんなことがじわじわと外に広がっていく番な気がする。
今はまだわからないけど 東京の人も 関西の人も
フランスにいる人も できることがあると思う。
まずは興味をもってみること?わからないけど
脱原発の会議にいったら 何か見えてはくるのだろうか


福島での出会い

2012年01月08日 | 福島見聞録

 
 何年かぶりに東京駅から北に向かう新幹線に乗ってみて
福島 という 駅に降り立ってみて 感じたものは
あれ?なんだか思っていたより普通、、、 ということだった。


 今朝も昨日も その前も 原発について
いろいろと情報を得ようとしたら 例えばお正月から
セシウムの値がやたら高くなっているらしいとか
地震で4号機に異常?とか かなりドキドキしていたけれど
何もこんな 急に数値が上がってるとかいうときに
わざわざ行かなくってもと今朝はけっこう思っていたけど

 降り立ってみると 意外と普通な印象で


 よくある 地方の新幹線が止まる駅 に
降り立ってみた そう 福山だとか 岡山だとか
そんな印象と大して変わりはなかったりして
なんだか拍子抜けしたような。そうか ここでは
日常生活が続いてるんだ。 それはどこでも
きっと変わりのない事実。その日常の過ごし方や
抱えているものがたとえ違っても 人間は どこにいっても
日常を過ごす そしてそこでどう生きてくか それが
どこに居ても 誰にとっても課せられた課題なのかもしれない。


 今日はフランス人ジャーナリストとドキドキしながら
電車の中でいろんな会話をし 私の話す事にも彼女は
メモをとる訳で こりゃ責任重大!と緊張したけど
だんだんとそれなりにペースもつかめていったのか
夜には出会った人たちとけっこう楽しくみんなで会話もできて
ああいいなあこういうフランス語と日本で意見を交わすの
これってかなり楽しいなあ、、、と本当に有意義な夜だった。


 今日も これからも きっとちょっとテーマになるのは
他人の目 が 第一の基準だった日本人がこれからどう生きていくか
それが少しずつ変わっていくのかどうなのか というところなような気がして
今日の夜お話をしてくれた人たちは 福島は特に自分を強く
表現しないし いつも二番手でいいと思っているような人たちが
多いけれどもこれからどう変化していくかが鍵であり
福島の人たちが変われたら日本は変わる事ができるのでは、と言っていた。
私はそれがすごくいいなと思った 今日私が出会った福島の人たちは
なんだかとても強かった。想像してたイメージと違い
もっと強くて 沢山のことを自分の頭で考えていて
どうしたらいいのかわからない状況の中 それでも道を選択していた。


 フランス人のジャーナリストは 私のかわりに沢山の
素朴な疑問をぶつけてくれる。「どうしてあなたたちはマスクをしないの?」
するとこんな答えがかえってきて驚いた。「6月まではかなりみんな
マスクをしてました。でも夏になってあつくて暑くて仕方なくって
もう耐えれない!と思って私はマスクをやめたんです。
それで一度やめてしまったから、もう暑くないからといって
マスクをつける理由がなくなってしまった」のだそう。
それは例えば彼女にとっては自分に課したいろんな厳しい基準を
「もういい」と緩めていくのと同じなようで 例えば
「もうこのあたりの野菜は買ってもいいことにしよう」とか
「どうせ数値はたいしてあてにならないから毎日計るのを
やめにしよう」とか そういうことと同じらしい。
じゃないととうてい耐えられない。すべてのことを我慢していたら
生きられないし そういう意識が振り切れるくらい強い人たちは
もうすでに避難しているらしい。


 だけど避難をしたからといって そう 待っているのは日常なのだ。
これは私もフランスで経験したからよくわかる。
はじめの何週間かはいいけれど その後待っているのは
自分の知らない土地での日常。もちろん足りないものだらけ。
それに加えてそこでどうやって生きる事を継続していけるだろう?
特に子供がいたりする中 どうやって働いていくのだろう?
遠くにいけばいくほど安全 とは言ってみたって
遠くにいけばいくほど 友人にも旦那にも会えなくなるし
遠ければ遠いほど 慣習なども異なってくる。
そこで?いつまで?自分はやっていけるのか??


 今日出会った 旦那さんがカナダ人でフランスにも縁のある
日本人の奥さんは 子供をつれて2ヶ月間フランスに行ったらしいけど
けっこうそれが辛かったので 今度はカナダで過ごす予定も
会ったのだけどやめることにしたらしい。旦那も一緒にいるなら
まだしも(それでも大変そうな人たちの話をフランスに居るとき聞いた)
一人で子供を抱えて異国の土地で、いくら優しい旦那の両親が
居てくれたって 抱えるストレスや子育て感の違いの中で
むこうの目をそれなりに意識しながらやっていくのは並大抵の
ことじゃない。それなら慣れ親しんだ我が家で、なんとか
いろんなことに気をつけながら生きていく方が 子供に
毎日怒りながらイライラして生活していくよりよっぽどいいと
思ったそうな。私にはその気持ちがよくわかる。
どうしてなのかはわからないけど 私もよくあの地で泣いた。

 
 みんな日常を持っている。 愛着のある土地があり
想いのつまった人生がある いくら頭で「危ない」と言われても
それは一筋縄になんかいかないだろう。今までと全く違う人生を
いきなり目の前に差し出されても 誰だってそれはとても恐ろしい。
きっと特に それは自分を弱いと感じてしまう 女の人にとっては
なおさら強いんじゃないのかな。


 他に行ける場所があっても 避難しない人も居る。
これからのあてがなくても 避難を決める人も居る。
そうしてそれから どんな人生が待っているのか
それはだれにもわからない。でも私が今日出会った福島の人たちは
なんだか強そうな人たちに見えた。そしてそれは、逆説的に
この激しい毎日の困難に直面してったことで ここの人たちが
身につけていったものなのだろう。今日私が出会った人たちは
どうしてなんだかみんな笑顔が美しかった。女たち、困難に
直面しながら もがきながら それでも笑顔を忘れていない女性たち。
ジャーナリストも女性。私も女性 これから取材をするのも女性。
まだ会ったことはないけれど なんだかどこかで連帯感を感じてしまう
他人の目 が 最優先で あまり言葉も持ってなかった
日本の女性は ここから変わりつつあるのだろうか
福島の女性たち これから10日 彼女たちの考えてること
私も一緒に探りたい。

フランスに行くなら

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