語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『子育てごっこ』 ~きだみのるの娘~

2010年05月26日 | 社会
 「検閲を警戒すること。しかし忘れないこと--社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です」とスーザン・ソンダグは言った(『良心の領界』、NTT出版、2004)。
 稀代の旅行家にして社会学者のきだみのるは、もっと簡潔にいっている。「良心とは心にすむ他人だ」と。

 本書は、表題作のほか、『親もどき<小説・きだみのる>』をおさめる。
 いずれもきだみのるとその11歳の娘の千尋が中心人物で、『親もどき<小説・きだみのる>』は事実により近く、『子育てごっこ』は事実からより遠離る、という関係らしい。

 『親もどき』は小説と銘打つが、あとがきによれば、娘を裕美と仮名にした一点を除いて事実そのままらしい。それならば回想としてもよさそうなもので、あえて小説とする理由がわからない。事実において不徹底、かといって小説と呼ぶには想像力が貧しすぎる。そんな妙な作品である。
 さしあたり事実と受けとって読めば、晩年のきだみのるの一側面を知ることができて興味深い。

 裕美はきだみのるが68歳のときにもうけた子である。籍は入ってない。
 きだみのるは、女が別の男に走ったことに激怒して裕美を連れ歩くことにした・・・・らしい、と三好は推定する。

 未就学であると知って驚いた三好は、裕美を自宅に寝起きさせ、彼とその妻が教壇にたつ分校へ通わせることにした。
 ところが、これがたいへんな娘だった。ご馳走になりながら、料理が下手だと文句をたれる。朝起こしても狸寝入りをきめこむ。好きな烏賊の塩辛があると、それだけを食べて飯も他のおかずも手をつけない。授業中には悪ふざけばかり。教師の指示には従わない。
 以下、裕美へのしつけと教育をタテ糸とし、きだみのるの言動をヨコ糸として話は進行する。

 教育の大切さが本書の訴えたい意図であるらしい。
 しかし、評者には、著者の意図には反して、管理教育よりも、きだ式放任主義のほうに惹かれる。
 きだみのるは家庭をもたなかった。だから、裕美をしつけなかった。しつけないから、裕美はきだ・みのるの言動をみて模倣した。料理が下手ならズケズケいうのも、好きな食べ物があれば集中的に食べるのも、きだみのるのふだんの行動そのままである。

 『子育てごっこ』の初出は1976年(同年きだみのる没)。『親もどき』が発表された時期は不明だが、同じ年か翌年だろう。
 戦後まもない頃には学ぶ機会を奪われた子どもがたくさんいた。未就学の裕美に教育を受ける機会を与えた三好の方針は、こうした時代の理想を追っていたのだろう。たしかに、学校でしか学べないものもある。少年時代の一時期に失明し、生涯学校で学ぶ機会のなかったエリック・ホッファーさえ似た感想を漏らしている。
 しかし、ホッファーは独学で独自の思想を織りなした。
 きだみのるもまた、自由奔放に生きて、貴重な社会学的観察の数々と旅行記、そして『ファーブル昆虫記』の名訳をのこした。
 型破りの人間は、やはり社会に必要なのだ。

 三好京三は、養子にした千尋から、後年、性的虐待のかどで告発された(広瀬千尋『過去へのレクイエム』、オーク出版サービス、1986)。
 一見常識人のようにみえて、三好もまた「型破り」の一人であったことになる。

□三好京三『子育てごっこ』(文春文庫、1979)
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