語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【本】欧米理解に不可欠なこと ~『立花隆の書棚』~

2018年02月11日 | 神話・民話・伝説

   

 (1)立花隆は、三大宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の文献を原語(ヘブライ語・ギリシア語(コイネー)・ペルシア語・アラビア語)で読み込んだ。
 まずキリスト教。あるいは旧約聖書と新約聖書。これを理解しないと欧米が上っ面しかわからない。無神論者の多い日本人の盲点だ。
 キリスト教と一言でいっても、プロテスタントとカトリックでは、聖書の解釈にしても、信者に求めることにしても、まったく違う。もう別の宗教といっていいほどだ。プロテスタントの中でも、教派ごとに、考え方がものすごく違う。大陸のプロテスタントと米湖気宇のプロテスタントでは、これまた別の宗教といっていいほど違う。
 例えば、三位一体論。

 (2)キリスト教には3つの神概念(父なる神・子なる神・聖霊なる神)がある。3つの神が三にして一つ、3つの神の本質部分はまったく同一であり、違いがあるのは位格(ペルソナ)だけ、というのが「三位一体論」だ。
 ペルソナは、ギリシア演劇で、役者がかぶる仮面のことをいう。役者はいろんな仮面をかぶるつことで、いろんな劇中人物になる。それと同じで、神は人間界に出てくるとき、いろんな仮面をかぶって出てくる。どの仮面をかぶっているときも神の本質は同じだが、人間が認識できる姿(現れ方)が違う。これを位格(ペルソナ)という。

 (3)マリアと神の間には、位格の違いではなく、本質的な違いがある。マリアは神ではなく人間だが、イエス・キリストを産んだ特別の存在だ。だから「テオトコス(神の母)」と言われる。
 マリアの死においても、死後その遺体が腐敗したのでは幻滅だから、カトリックの正式の教義では、死の床にキリストがあらわれて、マリアは肉体を持ったままの状態で天に引き上げられたとされる(「聖母被昇天」、1950年)。
 ただし、神と人との間にある独特の存在類型(「テオトコス」)を認めるのは、ギリシア正教とカトリックだけだ。プロテスタントは認めていない。
 公会議はこれまでに21回開催されているが、第1回のニカイア公会議(325年)で、アリウス派(父なる神だけが真の神であり、子なる神キリストは神ではない、とする)が異端とされた。しかし、三位一体を正統とする教義は、ここではまだ確立されていない。
 第3回のエフェソス公会議(431年) で、マリアをテオトコスと認めた。ネストリウス派(最後まで反対した)は異端とされ、キリスト教の主流から放逐された。
 ネストリウス派は、その後も中東地方で根強い支持を集め続けたが、第4回のカルケドン公会議(451年)でも敗北し、最終的に教会から追い出された。しかし、ネストリウス派はその後、ペルシアを経て唐の太宗の時代に、長安に寺院を建てて大秦景教を名乗る。この教えは日本にも伝わり、広隆寺がその流れをくむ。

 (4)「初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共にあった。ロゴスは神であった。このロゴスは、初めに神と共にあった。万物はロゴスによって成った。成ったもので、ロゴスによらずに成ったものは何一つなかった。ロゴスの内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」
 これは、新約聖書ヨハネ伝第1章第1~6節だ。ただし、「言(ことば)」をロゴスに置き換えた。
 ロゴスがキリストなのだ。はじめにことばがあって、ことばは神とともにあり、ことばは神なのだ。そして、すべてのものはこれによってできた。
 旧約聖書によれば、神の最初の行為である「天地創造」は、「光あれ」の一言で始まる。その一言によってすべてが始まる。その一言がロゴスなのだ。すべてのものはこれによってでき、できたものは一つとしてこれによらないものはなかった。だから、ロゴスがすべてた。ロゴスは神の被造物ではなく、はじめから存在しているものだ。それがキリストだから、キリストは神の創造物ではなく、神と同格の存在ということになる。
 これをロゴス・キリスト教論といい、三位一体論の重要な柱となる。 

 (5)三位一体論はわかりにくい部分がある。むしろ、アリウス派(父なる神だけが真の神であり、子なる神キリストは神ではない、とする)のほうがスッキリした分かりやすい主張だ。だからアリウス派的主張はその後も止むことはなかった。現代において、米国で特にインテリ層を中心に少なからぬ支持を集めているユニテリア教会も、イエスは人である、という主張をしている。イエスには人性と神性の2つの性格があるとするのがキリスト両性論で、キリストは神ではなく人とするのがキリスト単性論(ユニテリアン)だ。

 (6)米国人の大半は、今でも神の存在を本気で信じている。「信じている」と言っても、原理主義的に聖書に書かれていることをそのまま字句どおりに信じる人と、その内容をひねりにひねって解釈したり、現代的に合理化した上で信じる理神論者がいる。それ以外に、不可知論者は少数派で、無神論者は実はきわめて少ない。
 聖書をテキストとして評価しながら読む人は、きわめて少数だ。米国人のほとんどは、もっと素朴に聖書を読む。素朴に読んで、その言葉を本当にそのまま信じている人が圧倒的に多い。

□立花隆/写真:薈田 純一『立花隆の書棚』(中央公論新社、2013.3)の第2章
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