(1)エフェソス公会議でマリアを「テオトコス(神の母)」とする決定が行われたとき、エフェソスは町全体が歓呼の声をあげた。この町には、大昔から古代世界で「世界の7不思議」とされていた地母神アルテミスの大神殿があり、そこに超巨大な(高さ15mと伝えられる)女神像があって、拝みに遠方から集まって来る人々でにぎわっていたからだ。
この女神像は、胸に無数の乳房をつけ、豊穣と多産のシンボルとして古代世界で最も信仰を集めた女神の像だった。
新約聖書の使徒言行録によれば、パウロがエフェソスに出かけ、アルテミス神信仰をやめるべきだ、と説いたとき、ほとんど暴動まがいのことが起こり、パウロは殺されかけた。
これほど信者を集めたが、中東にキリスト教の教えが広まるにつれ、やがてアルテミス神信仰は本当に消えたかのようになる。東ローマ皇帝がキリスト教に帰依し、アルテミス信仰を禁止したせいもある。
ところが、エフェソス公会議がマリアをテオトコスと認定すると、エフェソスからマリア信仰が盛り上がり、昔のアルテミス信仰以上となった。キリスト教の土着宗教との結びつきの一例だ。
(2)キリスト教は、紙の上に書かれた教義を抽象的に理解するだけでは、まったく分からない世界だ。その土地の人々の日常生活と密着した、地域のすべての文化的伝統、日常的共同行動と切り離せない。
そのことを立花が最初に気付いたのは、エルサレムの聖墳墓教会に行ったときのことだ。あ、これは土着宗教なんだ、と直感した。
次にそれを強く感じたのは、スペインのセビリアの大聖堂でミサの一部始終を観察したときだ。地元のおばさんたちの一挙手一投足を細かく追っているうちに、「あ、やはり、これは土着宗教なんだ」と思った。その土地に根づいている昔ながらの宗教儀式という感じだ。それは何とも泥くさい、古い密儀宗教的要素を色濃く持っていた。僧たちが、煙をモクモク出し続けている香炉を長い鎖の先にぶら下げ、それを打ち振りながら、会堂の中をグルグル歩く。呪文のような言葉をブツブツ唱え続けている。真言密教の護摩焚きそっくりだった。
これはキリスト教を考える上で絶対外せない要素だ。土着宗教であるキリスト教がラテンアメリカでどのように布教されていったか。これを考えないことには、ラテンアメリカを理解することなどできない。
(3)ちなみに、真言宗は、新しく入ってきた仏教と日本土着の宗教がつながって成立した。特に密教部分の核を形成しているのは、土着宗教の要素だ。だから、真言密教では、護摩木を焚いたり、念仏を唱えたりといった、合理性では説明できない「怪しげな儀式的要素」が大きな意味を持ったり、ありがたがられたりする。
密教と似た土着の民衆宗教的な側面が、カソリックにもある。
実は、東方教会には、その性格がより強く、土着宗教の要素がさらに濃い。
今でも一般大衆は、そうした要素を信じ込んでいる。これは、たいていその地域の文化の最古層に昔からあった要素なのだ。
宗教は、あるところで生まれて、それが周辺の文化圏に広がり伝播していく過程で、必ずその土地に古くからある別の宗教思想と激しくぶつかり合い、その衝突過程で、互いに影響し合い、相手を変えるとともに、自分も変わっていく(「接触と変容」)。
(4)土着宗教であるキリスト教は、ラテンアメリカにどのような影響を与えたか。
メキシコには、「グアダルーペの聖母」と呼ばれる国民的な信仰が広く寄せられている褐色の聖母像がある。
1531年、メキシコ市郊外のテペヤックの丘で、聖母が地元民の前に出現した、とされる。そのいきさつはここでは省くとして、その出現前後を細かく調べたローマ法王庁は、これを真正の聖母出現と公式に認めた。ローマ法王庁が公式に奇跡の聖母出現だと認めたものは全部で3例。その最初のものがグアダルーペの聖母だ(他の2例は、フランスはルルドに出現した聖母、ポルトガルはファティマにあらわれた聖母)。
世界中の信者たちがここを訪れ、今も当時のまま保管展示されている奇跡の聖母像を拝観していく。
(5)ところが実は、この聖母像について全く違う見方がある。キリスト教が布教の過程で土着宗教との融合を起こした例だと。聖母が褐色なのは、聖母マリアが救いの手をラテンアメリカの原住民たちに差しのべるために、自ら原住民と同じ肌色に身を変えてこの地に出現したのだと。
当初、ローマ法王庁はこの奇跡の聖母をもってメキシコの守護聖母と位置づけていたが、今ではラテンアメリカ全体の守護聖母という位置づけに変えている。
テペヤックの丘は、そもそも別の意味で聖なる場所だった。この地メキシコは、アステカ文明の中心地だった。テペヤックの丘は、アステカの地母神ともいうべきトナンツィン(「我が母なる神」)の霊物だったと言われる。
アステカ文明は、基本は太陽信仰で、太陽を狂いなく運行させるために、定期的に太陽に若い乙女を人身御供をして捧げていた。その心臓を取り出し、その血液を地に流すことが必要だった。
スペイン人がこの地に入ってきて、アステカ王国を滅ぼすとともに、かかる風習を止めさせた。
トナンツィンは豊穣と多産の女神で4あり、幼児の生死をつかさどる神でもあった。この女神は生け贄を要求する神ではなかったが、恐ろしい風習が蔓延していた土地柄、スペイン人からは、地母神トナンツィンも怪しい神と見られ、悪魔に類するものとみなしたカソリックの指導者もいた。
グアダルーペの聖母の出現は、スペイン人がアステカを滅ぼし、アステカの多神教信仰をすべて禁じてから役0年後に起きた。法王庁の認可前は、一部の司教から悪魔扱いされた。
スペイン人がアステカの伝統的な宗教を禁じたことで、原住民に大きな欲求不満を起こしていた。
原住民が聖母マリアの顕現をテペヤックの丘で見た背景として、心理の深層において、2つの神(トナンツィン神と聖母マリア)が二重写し的にあらわれたのではないか。それが融合し、いわばトナンツィンが聖母マリアに生まれ変わったかのようなイメージの転換が人々の心の奥底で起きたのではないか。
さらに進んで、次のような仮説も出ている。当時、原住民を武力で制圧することは簡単にできたものの、その後、彼らのハートを捕らえて、キリスト教信仰に導くことは、必ずしもうまくいかなかった。トナンツィン信仰と聖母マリア信仰を上手く結びつけるために、聖母マリアの顕現神話を、カトリックの側が、密かに作り上げてこれを流布したところ、見事に成功をおさめて、人々が熱心なカトリック教徒になった・・・・これも十分にあり得る説だ。
(6)2つの有力な宗教が衝突したとき、2つの神が実は同じ神の別のあらわれとして、両方の宗教を合理化する現象(「習合」)は、宗教の歴史において珍しくない。わが国では、本地垂迹説がある。
キリスト教が広く伝えられていく過程で、それぞれの土地で古くから信じられてきた宗教と接触し、一種の習合現象が起きるのは珍しくない。グアダルーペの聖母はその典型例だが、実はもっとスケールの大きな融合・一体化が、聖母マリア信仰を生んだ、とする考えもある。
□立花隆/写真:薈田 純一『立花隆の書棚』(中央公論新社、2013.3)の第2章
【参考】
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この女神像は、胸に無数の乳房をつけ、豊穣と多産のシンボルとして古代世界で最も信仰を集めた女神の像だった。
新約聖書の使徒言行録によれば、パウロがエフェソスに出かけ、アルテミス神信仰をやめるべきだ、と説いたとき、ほとんど暴動まがいのことが起こり、パウロは殺されかけた。
これほど信者を集めたが、中東にキリスト教の教えが広まるにつれ、やがてアルテミス神信仰は本当に消えたかのようになる。東ローマ皇帝がキリスト教に帰依し、アルテミス信仰を禁止したせいもある。
ところが、エフェソス公会議がマリアをテオトコスと認定すると、エフェソスからマリア信仰が盛り上がり、昔のアルテミス信仰以上となった。キリスト教の土着宗教との結びつきの一例だ。
(2)キリスト教は、紙の上に書かれた教義を抽象的に理解するだけでは、まったく分からない世界だ。その土地の人々の日常生活と密着した、地域のすべての文化的伝統、日常的共同行動と切り離せない。
そのことを立花が最初に気付いたのは、エルサレムの聖墳墓教会に行ったときのことだ。あ、これは土着宗教なんだ、と直感した。
次にそれを強く感じたのは、スペインのセビリアの大聖堂でミサの一部始終を観察したときだ。地元のおばさんたちの一挙手一投足を細かく追っているうちに、「あ、やはり、これは土着宗教なんだ」と思った。その土地に根づいている昔ながらの宗教儀式という感じだ。それは何とも泥くさい、古い密儀宗教的要素を色濃く持っていた。僧たちが、煙をモクモク出し続けている香炉を長い鎖の先にぶら下げ、それを打ち振りながら、会堂の中をグルグル歩く。呪文のような言葉をブツブツ唱え続けている。真言密教の護摩焚きそっくりだった。
これはキリスト教を考える上で絶対外せない要素だ。土着宗教であるキリスト教がラテンアメリカでどのように布教されていったか。これを考えないことには、ラテンアメリカを理解することなどできない。
(3)ちなみに、真言宗は、新しく入ってきた仏教と日本土着の宗教がつながって成立した。特に密教部分の核を形成しているのは、土着宗教の要素だ。だから、真言密教では、護摩木を焚いたり、念仏を唱えたりといった、合理性では説明できない「怪しげな儀式的要素」が大きな意味を持ったり、ありがたがられたりする。
密教と似た土着の民衆宗教的な側面が、カソリックにもある。
実は、東方教会には、その性格がより強く、土着宗教の要素がさらに濃い。
今でも一般大衆は、そうした要素を信じ込んでいる。これは、たいていその地域の文化の最古層に昔からあった要素なのだ。
宗教は、あるところで生まれて、それが周辺の文化圏に広がり伝播していく過程で、必ずその土地に古くからある別の宗教思想と激しくぶつかり合い、その衝突過程で、互いに影響し合い、相手を変えるとともに、自分も変わっていく(「接触と変容」)。
(4)土着宗教であるキリスト教は、ラテンアメリカにどのような影響を与えたか。
メキシコには、「グアダルーペの聖母」と呼ばれる国民的な信仰が広く寄せられている褐色の聖母像がある。
1531年、メキシコ市郊外のテペヤックの丘で、聖母が地元民の前に出現した、とされる。そのいきさつはここでは省くとして、その出現前後を細かく調べたローマ法王庁は、これを真正の聖母出現と公式に認めた。ローマ法王庁が公式に奇跡の聖母出現だと認めたものは全部で3例。その最初のものがグアダルーペの聖母だ(他の2例は、フランスはルルドに出現した聖母、ポルトガルはファティマにあらわれた聖母)。
世界中の信者たちがここを訪れ、今も当時のまま保管展示されている奇跡の聖母像を拝観していく。
(5)ところが実は、この聖母像について全く違う見方がある。キリスト教が布教の過程で土着宗教との融合を起こした例だと。聖母が褐色なのは、聖母マリアが救いの手をラテンアメリカの原住民たちに差しのべるために、自ら原住民と同じ肌色に身を変えてこの地に出現したのだと。
当初、ローマ法王庁はこの奇跡の聖母をもってメキシコの守護聖母と位置づけていたが、今ではラテンアメリカ全体の守護聖母という位置づけに変えている。
テペヤックの丘は、そもそも別の意味で聖なる場所だった。この地メキシコは、アステカ文明の中心地だった。テペヤックの丘は、アステカの地母神ともいうべきトナンツィン(「我が母なる神」)の霊物だったと言われる。
アステカ文明は、基本は太陽信仰で、太陽を狂いなく運行させるために、定期的に太陽に若い乙女を人身御供をして捧げていた。その心臓を取り出し、その血液を地に流すことが必要だった。
スペイン人がこの地に入ってきて、アステカ王国を滅ぼすとともに、かかる風習を止めさせた。
トナンツィンは豊穣と多産の女神で4あり、幼児の生死をつかさどる神でもあった。この女神は生け贄を要求する神ではなかったが、恐ろしい風習が蔓延していた土地柄、スペイン人からは、地母神トナンツィンも怪しい神と見られ、悪魔に類するものとみなしたカソリックの指導者もいた。
グアダルーペの聖母の出現は、スペイン人がアステカを滅ぼし、アステカの多神教信仰をすべて禁じてから役0年後に起きた。法王庁の認可前は、一部の司教から悪魔扱いされた。
スペイン人がアステカの伝統的な宗教を禁じたことで、原住民に大きな欲求不満を起こしていた。
原住民が聖母マリアの顕現をテペヤックの丘で見た背景として、心理の深層において、2つの神(トナンツィン神と聖母マリア)が二重写し的にあらわれたのではないか。それが融合し、いわばトナンツィンが聖母マリアに生まれ変わったかのようなイメージの転換が人々の心の奥底で起きたのではないか。
さらに進んで、次のような仮説も出ている。当時、原住民を武力で制圧することは簡単にできたものの、その後、彼らのハートを捕らえて、キリスト教信仰に導くことは、必ずしもうまくいかなかった。トナンツィン信仰と聖母マリア信仰を上手く結びつけるために、聖母マリアの顕現神話を、カトリックの側が、密かに作り上げてこれを流布したところ、見事に成功をおさめて、人々が熱心なカトリック教徒になった・・・・これも十分にあり得る説だ。
(6)2つの有力な宗教が衝突したとき、2つの神が実は同じ神の別のあらわれとして、両方の宗教を合理化する現象(「習合」)は、宗教の歴史において珍しくない。わが国では、本地垂迹説がある。
キリスト教が広く伝えられていく過程で、それぞれの土地で古くから信じられてきた宗教と接触し、一種の習合現象が起きるのは珍しくない。グアダルーペの聖母はその典型例だが、実はもっとスケールの大きな融合・一体化が、聖母マリア信仰を生んだ、とする考えもある。
□立花隆/写真:薈田 純一『立花隆の書棚』(中央公論新社、2013.3)の第2章
【参考】
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文化変容、昔、授業で習い、強く印象に残っています。
日本の神話も含め、
神話も支配の土着化なのでしょうね。
さればこそ、支配される側から見た出雲神話は興味深いですね。