語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【出雲】国引きの神はなぜ隠れたか? ~八束水臣神津野命の正体(1)~

2012年05月03日 | 神話・民話・伝説
(1)「出雲」の起源 ~イツモとイズモ~
 出雲の国引き神話はよく知られているが、その主役のヤツカミズオミツノノミコトは謎に満ちている。そもそも、国引きという大事業をなし終えた後、どこに消えたのか。この神の鎮座する社は『出雲国風土記』(以下『風土記』)に記されていないし、その御子神はわずか一柱、出雲郡伊努郷の地名説話にあがる「赤衾伊努意保須美比古佐倭気能命」のみだ。
 この謎に迫るには、まず「出雲」の起源を辿らねばならない。

 「出雲」国号は、出雲郡出雲郷(現・簸川郡斐川町求院・富村・出西・神守)に由来する。出雲郷は、「出雲大川」の別称をもつ斐伊川下流右岸付近の平野郡だ。この小さな土地の名が後に国名に拡大発展したのだ。
 「出雲」という文字の起源・由来は、雲が絶えず湧き起こる自然現象に起源する。斐伊川が簸川平野に流出する地域には雲霧がよく発生するのだ。
 だが、別の説もあって、斐伊川下流低湿地に形成された天然の淵、そこに生える川藻を神聖視する信仰が基底にあるというのだ。わけても出雲郡塩治郷付近の「止屋淵」に群生する川藻が、もっとも神聖視された(「厳藻(イツモ)」説)。
 初源期、「イツモ(厳藻)」国が西出雲地域に形成されていたのだ。その「イツモ」はやがて「イズモ(出雲)」となったわけだ。名称変更された時期は、天・地/天ツ神・国ツ神の観念が出雲地方にも流入した時期より後だ。出雲に国造制が施行された頃、「八雲立つ出雲」国号が成立したのだ。
 国号の変転に密接に関係するのが、八束水臣神津野命(ヤツカミズオミツヌノミコト)の祭祀だ。
 『風土記』)総記にいわく、「八雲立つ出雲の国は狭布の稚国なるかも(幅の狭い布のような若い国だ)。初国小さく作らせり(最初に作った国の範囲は狭かった)。故、作り縫はな(だから、これから縫い拡げていこう)」
 こう語るのは八束水臣神津野命だ。「国引き」の神が出雲を創成した、というわけだ。
 神話上の「稚国」「初国」から大きな国への作り替えは、歴史上の小さな「イツモ」国から大きな「イズモ」国への進化と重なる。そして、この神にまつわる祭祀・儀礼の変質、ひいては国造を含む出雲国の首長勢力の歴史的な変転とも連動している。

(2)古代出雲の4大神
 『風土記』には、「大神(オオカミ)」が4柱ある。野城大神、佐太大神、熊野大神、所造天下(天の下造らしし)大神大穴持命(出雲大神)だ。
 大社、大神の称号は、ヤマト政権からは簡単には地方の神社には与えられなかった。『風土記』に記載されている大神は、出雲国の祭祀を専管した国造が、何らかの宗教的構想に基づいて国造の判断で指定したのだ。その構想を『風土記』に記して明確化しようとした意図は何か。
 ここで、これら4大神を地図上に落としてみると、野城・佐太・熊野の3大神は出雲東部に集中している。意宇郡家の位置からみると、3大神はほぼ東・北・南の方角に10kmほど隔てた地に所在している。他方、出雲大神は意宇郡家かのはるか真西30kmの地に位置している。
 野城・佐太・熊野の3大神は出雲国造一族の旧来の支配領域の境を示すものだ。後に出雲国全域にその支配権力を伸張させた段階で、出雲大神が西の重鎮として奉斎されるようになった。4大神の成立は、出雲国造の支配権力の拡大過程を反映している。 
 出雲大神が西方にかなり飛び離れて位置するのは、宍道湖が東西に長い湖面を有しているからであって、4大神は出雲国造が出雲国の中枢地帯全域を聖化し、守護する大神として、一時期に選定した有力神だ。
 選定には深淵な宗教的企画があったはずだ。というのは、国引きの神、「出雲」の国号命名した神、一説によれば出雲国造一族の原初の祖神、つまり八束水臣神津野命が4大神の仲間から外れているからだ。何故か。
 その答は後に譲るとして、4大神は元来はそれぞれの地域に形成されたクニの主神たちだった。出雲国造は、広域的な支配権の確立に伴って、それらの神々に対する統一的・領域的祭祀権を獲得したのだ。さらに、より高次の宗教王国的な構想にもとづく新たな神話的世界の形成に対応させるため、4大神の周到な選定と地理的な配置関係を作り出したのだ。
 そして、4大神の創出と密接な関連性をもっている、と推定されるのが『風土記』に登場する「神名火山/神名樋山/神名樋野」の伝承だ。

(3)古代出雲の神名火山
 「神名火山/神名樋山/神名樋野」・・・・「かむ(ん)なび」は、神が籠もるの意だ。神が降臨する山そのものを神に見立てる信仰があり、古代の列島社会には地域ごとにこうした山が無数にあった。意宇郡でそういう扱いを受けた山が神名樋野だ。「野」は「草地の多い山」の意だ。

 (a)意宇郡の神名樋野・・・・茶臼山(171m)。意宇郡家は国庁と同じ場所に隣接していた(松江市山代町中島に出雲国府跡)。その付近から西北間近に茶臼山がそびえる。これが神名樋野だ。この山に籠もる神は、大穴持命の御子、山代日子命だろう。
 (b)秋鹿郡の神名火山・・・・朝日山(342m)。朝日山の東麓、八束郡鹿島町(現・松江市鹿島町)佐陀宮内の佐太神社が『風土記』の御子社だ。佐太大神の誕生地は、嶋根郡加賀郷、加賀神埼であるとする伝承がある。朝日山は、これら両郡の地域でもっとも有力な神の鎮まる聖山だった。
 (c)楯縫郡の神名樋山・・・・大船山(327m)。島根半島西寄りにそびえる大船山頂付近の巨大な磐座が一つと小石群がある。この「石神」は、多伎都比古命の「御魂」だと伝えられる。神名の「多伎都」は水が激しく流れ落ちる「滝つ」の意。雨乞いに霊験を示す神だったらしい。多伎都比古命の父神、阿遅須枳高日予命は、神戸郡の高岸郷条に高屋を造って養育した地だ(伝承)。母神が、「汝が命の御祖の向位に生まむ」と考えて、この山に御子神を産生したとするのは、地理的にも矛盾しない。
 (d)出雲郡の神名火山・・・・仏経山(366m)。神庭荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡に近い。曾伎能夜社は、この山の北麓に位置する斐川町神氷にあるが、もともとは山頂に神の座があった。山体そのものが伎比佐加美高日子命として祟められたらしい。この神名は、『古事記』垂仁段に「出雲国造の祖、名は岐比佐都美」によく似ている。加美=神、都美=積ならば、「キヒサ」の部分が相互に一致している。「キヒサ」は、仏経山の南麓付近の古い地名だ。

 以上、『風土記』の神名火(樋)山は、大神と同じ数の4だ。4つの神名火(樋)山は、広大な出雲国の北端部に集中している。しかも、風土記の「入海」(宍道湖)をとり囲むようにそびえ立っている。そして、想定された広大な空間をさらに外から包みこむような位置に4大神が鎮座している。これは一体何を物語るのか。
 「入海」は、出雲国を縦横に結びつける政治的・経済的動脈だった。しかも、出雲国を象徴する大自然の風物でもある。『風土記』意宇郡母理郷の条に出てくる「青垣山」は、具体的にはこの4つの神名火(樋)山を含む山々に囲まれた空間を指すのではないか。大穴持命が口にした「青垣山」は、「入海」を中心とした空間を強く意識して発せられた聖なる言霊ではないか。してみると、同様に「八雲立つ」と宣言した八束水臣神津野命は、一体どこでこの言霊を発したのか。
 『風土記』には、「入海」そのものを何らかの神に見立てた記述はない。「入海」を詳しく記そうとした形跡もない。他方、『風土記』は大穴持命より前に「国引き」をした八束水臣神津野命を明記している。しかし、「国引き」の後の八束水臣神津野命を『風土記』は記していない。この神は、偉大な事業をった後、どこへ姿を隠してしまったのか。

 (続く)
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