谷川理宣先生著「いま、ここの≪いのち≫に立つ」百華苑 の中に
執われの世界ー言葉・知識に対する執われー
という章があり、宇野正一さんの詩を紹介されています。
おちつばき
おちつばきの絵を
さしあげたら
えんぎがわるいと
いわっしゃったそうな
自然のままにころげおち
そっと座ったうしろ姿が
好きなのに
谷川先生は、こう書かれています
執われのない眼で椿の花のいのちの姿を感得している念仏詩人と、自分の貧しい言葉の知識に執われ、落ちた椿の花から死を連想して「縁起が悪い」としか受け取れない、自力分別の人との対比が見事に詠われています![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/arrow_l.gif)
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という章があり、宇野正一さんの詩を紹介されています。
おちつばき
おちつばきの絵を
さしあげたら
えんぎがわるいと
いわっしゃったそうな
自然のままにころげおち
そっと座ったうしろ姿が
好きなのに
谷川先生は、こう書かれています
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日記のように、昔の武士も自分分別で椿は縁起の悪い花と考えていたそうです。
それで、武家の庭には椿を植えないとも言われています。
だから、私は映画の考証が変だと思っていました。
日記の趣旨とは反しますが。
ちょいと思い出したので。
椿の花がポトリと落ちる姿は、首がころりと落ちる姿を連想させたので、特に武士には、「縁起の悪い花」だったのでしょうね。
これを思い出しながら、ネット検索したら、拓郎さんの曲がYouTubeにバンバン出てきました。かれこれ2時間は聴いてしまいました。
で、『おやじの唄』に行き当たりました。涙が止まりませんでした。
なのに なのに 大切なこの章を読まれるのは葬式の時だけです。 これは葬式用のとっておきだから普段読んではいけないという決りでもあるのでしょうか?
それとも《縁起》をかついでいるのでしょうか?
《後生の一大事を心にかけて・・・》
とは 生きているうちから 死後の事を考えて行動せよ ということなのでしょうか?
私はそのように解釈しているのですが・・・
「椿」から吉田拓郎さんへ。2時間楽しまれたんですね。音楽、歌は、本当に心に響きますよね。
「椿」~それは、よいご縁でありました。
ひろべえさん、
「白骨の章」は、本当に心にしみます。
仰るように、葬儀の時に拝読することが多いですね。
別に「葬儀用」という決まりはありませんが、葬儀に一番相応しい御文章だから、そうなるのでしょう。
別に「縁起をかついで」いるわけではありません。
ウチの住職は七七日のお参りの折、赤本(真宗勤行集)に掲載されているご文章を順繰りに拝読しているので、私も真似てそうしています。
だから、葬儀以外で白骨の章を拝読することもあります。
「後生の一大事・・・」の味わいは次のブログに掲載させていただきますね。