お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

お経は何のためにあげるのか?

2007年03月18日 | 仏教
 この2月に出版した「お寺は何のためにあるのですか?」法蔵館 の中にも書かせていただいていることですが、

 お経というのは、真理を覚られたお釈迦様が、私たち達を導いて、悩み、苦しみ、悲しみを超え、真理を悟らせよう、と説かれた仏法です。 お経は私たちへの説法です。
 
 最初は、お釈迦様の国のインドの言葉だったのが、中国に伝わり、翻訳されて漢文となり、そのまま日本に伝わりました。
 今でも漢文のまま読むので、お経が何やらあやしげな呪文に聞こえるのです。

 お経をあげるのは、亡くなった方に聞かせるためでもなければ、病気を治すための不思議なパワーを期待して・・・でもありません。

 私たちが、さとりの仏さまと向き合う(私のこころを問題にする)ために、つまり、自分で称えながら、自分の目で、自分の耳で、自分の心で「仏の心を聞く」ために、お経をあげるのだと私は味あわせていただいています。

 諸行無常が真理なのに、自分だけその法則から外れていたいと願望し、普段、仏の心に手を合わせることもないのに、 自分が困った時だけ、自分の願望のために神・仏まで利用しようとする、そういう浅ましい自分の姿に気づかされた時、本当の意味で、お経を有り難く味わうことができるのだと思います。

 宗門では、「お経は仏徳讃歎(仏さまの徳を讃える)ためにあげる」と教えられています。
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6 コメント

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Unknown (維真尽)
2007-03-18 20:09:42
こんばん~わ~

ちょっと難しいですねぇ
ただ凡人は
お経を唱えることにより
救いを求めるんではないでしょうか~?

自分が不安なとき
宗教というのは
そこに拠り所を求める
それが しぜん という気がします

太古の 太陽 山 などの自然信仰
それも、
大きなもの 大きな力を持つものへの
畏れから根ざしたものではと思います。
こういう考えは 神道 に近いかもしれませんね

だけど、なにかに すがりたいというのは
人間の 本質であるように思います

長文失礼いたしました (拝)
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お経は「あげる」のですね。 (yo-サン)
2007-03-18 22:07:42
早速のご教示忝く存じます。
ご住職様、坊守様、お二方とも本当に生真面目・律儀な方でいらっしゃいますね。

>「お経は仏徳讃歎(仏さまの徳を讃える)ためにあげる」・・・

お経は【あげる】のですか?私は【読む】のかと思っていました。
「門前の小僧習わぬ経を読む」なんて言いますから。

すみません。また教えて下さいませ。
「仏徳讃歎」なのに、どうして漢音で、あのように早く「あげる」のでしょうか?
お葬式、法事など機会あるごとに感じるのですが、単なる宗教儀礼のように見えるのですが・・・。

どうしてふつうの人が解り易い日本語で「あげ」ないのでしょうか?
例えば聖書などは日本語に翻訳され、教会でも家庭でも分かり易く(つまり母国語で)読まれていますね。
この違いはどうしてでしょうか。不思議に思います。

大蔵経は天文、医学、薬学、論理、心理、説話、寓話、物語・・・果ては笑い話まであり、明治の逍遥、露伴、鴎外、漱石などはよく「読んで」いたそうです。
漢文を読解出来ない私には至難の技ですが。
もちろん、岩波文庫の和訳対比の「三部経」などは持っていますが。
でも、私ごときの理解力では、とても味わうどころではありませんが。

すみません。問うは一時の恥とか申します。ぜひお教えを乞いたいと存じます。

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Unknown (法専寺)
2007-03-19 10:20:43
維新尽さん、
仏(真理)とは何なのか、「私のこころ」とはどういうものなのか・・・を知らされないまま、つまり、自分のこころを見つめないまま、何か自分に不都合なことがおこるたびに、神仏に自分の不都合解消を祈っても、それは人生の根本解決にならないと私は思うのです。
例えば、メタボで「困った」と思った時だけ、思い出したように運動する我流の対処療法か、メタボそのものを問題にしての正しい体質改善か・・・って感じでしょうか。

「仏さまにすがる」というのは、仏教はみんなそうだと思います。仏を拠り所に生きているわけです。

ただ、自分の都合に合わせて、仏に願いを叶えてもらおうと気持ちで「すがる」というのであれば、それは浄土真宗では、遺憾に思うのです。

自分ではメタボ解消の?体質改善がむずかしいから、「南無阿弥陀仏」なんです。阿弥陀仏に任せてこの人生を生きようということなんです。
返信する
お経の現代語訳 (法専寺)
2007-03-19 11:59:02
yo-サンさん、
たまたま、お寺に嫁にきた私は周囲の方々が「お経を読む」とは言われず、「お経をあげる」と言われるので、そういうものだと思ってきただけです。
「お経をあげる」と言うより、普段「おつとめをする」と表現します。

でも、一般の方が「おつとめをする」と耳にしたら、「えっ、どちらへご勤務で?」と混同されるだろうと思って、あえて「お経をあげる」という表現を私は使っているだけです。

>「仏徳讃歎」なのに、どうして漢音であのように早くあげるのでしょうか

ホントそうですね。苦笑してしまいました。
後のスケジュールを考えて、お経の速度を速めて?いるのか・・・僧侶の方々は読み慣れているから、ついついスピードアップしてしまうのか・・・

宗教儀礼と言われれば、その通りですが、法話をするにしても何にしても、まず、おつとめから始める・・・というのが教団内の「常識」なんですね。
たぶん、お寺に生まれ育った教団内の方々は、それがあまりに当然の「常識」なので、一般の方にお経をおつとめする意味など語ってこなかったように思います。

先日、浄土宗のおつとめの場にご縁があった時は「阿弥陀経」の現代語訳でした。

真宗も経典の現代語訳(三部経も)はあります。また、真宗聖典には、「○○のうた」(例えば「しんじんのうた」など)と題した数種類の意訳勤行もあり、現代語訳のお経をおつとめすることもあります。

でも、普段おつとめするのは、漢文の「正信偈」や漢文の「阿弥陀経」などが多いでしょうね。
それでは一般の方々にはお経が何のことだか分からないし、おまじないの呪文に聞こえるかもしれません。

でも、お経の現代語訳を読んだから・・と言って、仰るとおり、一般の私たちには、さっぱりわかりません。仏教専門用語の理解と知識がまず必要ですし・・・
やはり、どなたか専門家(ご住職方)に教えていただかないと、我流で読み解いては、誤解してしまいますので・・・

ウチでは、仏教壮年会の例会で住職が「正信偈」の解説をしているところです。お経の言葉の意味が、おおよそ分かったら、漢文のままでとても味わい深いのですが・・

でも、一般の方がご参列の葬儀・法事でのお経ということになると、現代に即した分かりやすいお経がいいですよね。
真宗の先生方に、現代人向け葬儀のお経「現代語版 正信偈」を作成していただかねば・・・
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どうも有難うございました。 (yo-サン)
2007-03-19 22:37:25

「正信偈」はお経と言いますよりも「偈」、つまり詩文ですから分かりやすいですね。
和讃にしましても親鸞聖人は詩人ですね。

かつて、天理さんの教区の先生方の研修(と言いましてもカウンセリング研修です)にお伺いしたことがあります。
宿泊だったので、「朝勤め」とか「夕勤め」にも参加させて頂きました。宗教は排他性が強いですが、天理さんはそれがないですね。感心しました。
私などのような真宗門徒のカウンセラーでなくても、お道(天理さん)にも立派な方がいらっしゃいますのにと。

越前は真宗王国、「おつとめ」と言って「えっ、どちらへご勤務で?」とはまずならないですよ。
もちろん言葉の前後のニュアンスを理解してのことですが。

自殺者が3万数千も出て、大人も子どもも生きづらい今日、宗教はやはり現世を生きる人々の心の糧になって行かないといけませんね。

川で溺れかかっている人があったら、まず手を差し延べて引き上げてあげねばならないですよね。
水辺は危ない、深みでは流されるだの、諸行無常、真理を説いていては死んでしまいます。

私など長年カウンセラーをしてきて、リタイア宣言をしてもしても夜討ち朝駆けの相談電話や、カウンセリングに忙殺されています。
なぜ?お寺さんに行かれないのでしょうね。

気軽に人生の相談が出来るお寺さんが多くなってほしいものです。

教団挙げて「お寺のオバサン運動」ってのもいいのではないかしら。
どうぞご自愛下さいまして、よきお働きを念じております。


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排他性 (法専寺)
2007-03-20 14:31:46
仏教はこだわらない、執着しない・・・はずなのに、「自分の教えこそ一番すばらしい、他はダメだ」と一番執着して、排他的、自分を高みに置いているのが、寺のモンかもしれませんね。反省です。
yo-サンさんのご意見は、とても勉強、参考になります。ありがとうございます。
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