片岡千恵蔵篇はこちら。
東映という会社を、わたしが知っているかぎりで総括すると、なんといっても京都撮影所で撮られる時代劇が持ち味だったのだ。千恵蔵、右太衛門の両巨頭に、中村錦之助、東千代ノ介、大川橋蔵が続いていたわけ。
ところが、明朗闊達なチャンバラが次第に飽きられ(とどめをさしたのが黒澤明の「用心棒」だ)、新しい路線を模索するなかで出てきたのが“任侠”であり、その代表者が俊藤浩滋だ。藤純子のお父さんね。
・俊藤浩滋
さあ、昭和39年だ。岡田所長の京都復帰に続いて、いよいよ俊藤浩滋が任侠路線に本腰を入れるために京撮(東映京都撮影所)へ送りこまれてきた。撮影所には切り捨てられようとしている時代劇への郷愁めいた思いもあってか、やくざ映画に対する不満や、半ば以上「あちら」の人と目される俊藤さんへの反感が生じた。
……説明されてもよくわからないと思う。この人は本当に得体がしれない。戦前から神戸の五島組の賭場に出入りし、東宝争議(昭和23年の、映画界どころか日本をゆるがした大事件)のときは会社側に立っていた。昭和35年にはその東宝から鶴田浩二の引き抜きに関与し(“あちら”の方々と鶴田がもめたときに救ってやったらしい)、巨人の水原茂監督を東映フライヤーズ(いまの日本ハムファイターズ)に移籍する仲介までやっている。こういう、謎の人物が映画界にはいたわけだ。
マスコミや他の映画会社から
「東映の京都撮影所には本物のやくざが出入りしている」
とさんざん悪く言われたが、実録路線になってからモデルの組のやくざが怒鳴り込んで来たりしたことを思えば、当時はまだ牧歌的な時代だった。
ついでに警察のことも言っておくと、千恵蔵御大扮する多羅尾伴内が撃つピストルなんかは、警察が貸してくれていたものだ。勿論、警官の立ち合いがついて、空砲を撃つのだが、不発もないし、やはり迫力があった。
……日下部は俊藤と微妙な距離をとっていたようだが、経緯もあって鶴田浩二はべったり俊藤についていたらしい。岡田所長とは険悪だったようだけどね。まあ、鶴田のむずかしい性格はおなじみだからなあ。
ちなみに、俊藤の愛人は高名なクラブのママで……って話まで始めると終わらなくなってしまう。お好きな方は「夜の蝶」という映画を観てね。
次回はいよいよ「仁義なき戦い」篇。
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