その時代に王がいることの幸福と不幸。伊坂幸太郎はそれをドラマ性を抑えて淡々と語る。
天才として非現実的な打率、本塁打を誇る(しかし彼を守るために父親がある事件を起こしてしまった過去がある)山田王求(おうく→名前を縮めると球になります。苗字は当然のごとくドカベンの引用)の生涯。非現実的という意味ではしゃべる案山子と同じレベル。
マクベスなどのシェイクスピア作品を露骨なまでに引用し、現代において運命を語ることのむずかしさをクリア。と同時に、運命を知ることの(王求はピッチャーが投げる寸前にストライクかボールかを“知っている”)つらさ、哀しさも表現している。王ならぬ身によって王は没することが予言されるが、しかし……
「The King」ではなく「A King」(ひとりの、ある)王と題されていることの意味が終章で判明。いつもの伊坂らしくない作品なので好き嫌いは分かれることと思うけれど、好き放題に書いたらこんな作品になったという意味では、もっとも伊坂らしいとも言える。いやー息子が貸してくれてよかった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます