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キャバレー「白ばら」閉店へ・酒田 大人の社交場、消える昭和の残り香
山形新聞 12月23日(水)
東北・北海道で唯一、営業を続けてきた酒田市のグランドキャバレー「ナイトスポット白ばら」が30日に閉店し、57年の歴史に幕を下ろす。水原弘や中尾ミエなど、昭和歌謡を彩った多くの歌手がステージに立ち、日本の高度成長と同じ曲線を描くように栄えた大人の社交場だった。大学生時代にアルバイトとして働き始め、現在は経営会社の取締役として白ばらの歴史とともに歩んできた本間邦夫店長(65)は「店を愛してくれるお客さんへの申し訳なさ、閉めることへの致し方なさで気持ちは半々です」。昭和の香りを残す空間が酒田の街から消える。
創業は1958(昭和33)年。酒田の繁華街に店を構え、奥羽観光(同市)の斎藤友弥会長が営業を始めた。現在の建物は69(同44)年に建てられた鉄筋コンクリート3階建て。店舗はその1階にある。ステージを起点にして扇状に広がる27のボックス席には、110人が収容できる。約7メートルの高い天井、床面積約700平方メートルの大きなフロア…。昭和の流行語「大きいことはいいことだ」は、キャバレーの店づくりにも当てはまっていた。
最盛期は昭和40~50年代。90人以上のホステスが在籍し、水原弘や中尾ミエ、渚ゆう子、千昌夫、山本リンダら数々の歌手がステージに登場した。昭和の大横綱大鵬、千代の富士が来店したこともあったという。音楽集団「上々台颱(シャンシャンタイフーン)」のボーカルとして知られる酒田市出身の歌手・白崎映美さんもステージに立ち、白ばらに魅了された一人だ。
道路を挟んで向かいにある料亭(当時)「山王くらぶ」から「白ばら」に流れるのが夜の定番だった。企業関係者の接待などでにぎわい、フロアはいつも満席だったという。
ともし続けたキャバレーの火は、景気低迷による企業接待の減少やエンターテイメントの多様化などで次第に小さくなっていった。昭和を知る世代が高齢になり、客層は広がらず、次第に経営を圧迫するようになった。現在は5人が従業員として働いている。
日和山ホテル(酒田市)の佐藤仁社長(52)ら有志が大みそかの31日、白ばらへの感謝を込めたイベントを企画している。白崎さんやかつてステージに立ったバンドメンバーらが出演。午後3時から4時間にわたって多彩なショーを繰り広げる。入場料は2千円で、午後9~11時には楽屋などを巡るバックヤードツアー(500円)も。この日の売上金は全額、同店に贈る。問い合わせは日和山ホテル0234(22)0102。
……そうかあ、ついに閉店か。酒田の盛衰を象徴しているかのようだ。
わたしの上の世代は、酒田で、特に歓楽街である台町で飲むときは「白ばらさ行ぐぜ!」というのが基本線。その学区にある学校も、最初の宴会が終わったら白ばらに繰り出すのがルールのようになっていたらしい。記事にもあるように「山王くらぶ」から白ばらに流れるのが、特に商売人や公務員にとってお決まりのコースだったわけだ。明治に建った山王くらぶも、いまは料亭ではなくて文化財として生き残っているのみ。時代ですかね。
グランドキャバレーという形式が成立するためには、とにかく夜の街に札びらが飛び交っていなければならない。住友軽金属の企業城下町となる夢破れ、大火でとどめをさされた酒田に、もうそんな余裕はかけらもなかったということか。ホステスが90人?いまでは台町全体でもそれだけの数はいないのではないだろうか。
わたしも先輩に連れられて一度だけ白ばらに入ったことがある。すでにフィリピンパブに変容していたのだが、その先輩がなんとわたしを置き去りにして出て行ってしまったのだ。どうしよう。
そこはしかし酒を飲むと度胸だけはある男。わたしひとりでフィリピンさんホステス数人といっしょにタガログ語で「ギンギラギンにさりげなく」を絶唱していたのでした。
「♪ギンギラギンにラシモアパー!」
まだ歌えます(T_T)。
港座のステージでは、クリスマスイブにおっさんミュージシャンたちが白崎映美さんのライブのために練習中。いいもの見せていただきました。きのう、うちの職場の同級生がその白ばらにが行ったらしいんだけど
「やっぱさぁ、高いよな居酒屋に比べたら」
「何人ホステスさんついたんだ?」
「三人」
「その分だろ」
「あ、そっかー」
やっていけないわけだよなあ。
Vol.10「おしんの里」につづく。