陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

子供の役者

2011-08-30 23:27:16 | weblog
夏の初めぐらいだっただろうか、近所のジャスコ(もはやそういう名前ではないのだが、どうしても慣れ親しんだ名前で呼んでしまう)ではレジの手前に、待っているお客さんへのサービスのつもりなのか、大きなテレビが設置された。テレビといっても病院の待合室にあるようなそれではなく、二十分程度の番組?が繰り返し流れるのである。

「鱧」の読み方だとかナスの保存方法だとかのちょっとした「お役立ち情報」や今日の占いなどだけでなく、テレビで流れるようなスポンサーのCMも差し挟まれる。先日も見るともなしにそれを見ていたら、小さな女の子が黄色い着ぐるみを着て歌っているCMが流れていた。

そうか、あのポニョの歌を歌っていた子がちょっとだけ大きくなって、あんなヒヨコの歌を歌っているのか……とばくぜんと思っていた。ポニョの歌の声とはちがっているような気もしたが、単に大きくなって、発声もしっかりしてきたのだろう、大きくなった子供がわざと子供っぽく舌足らずに歌っているのだろうと思っていたのである。

それが、後日、ふとした話の流れで、あれはまったくの別の子供だ、と聞いた。大きくなったから声が変わったのだろうとばかり思っていたのだが、そもそもまったくの別人だったのだ。考えてみればあたりまえで、ポニョの映画からもしばらく経っていることを思えば、あのポニョの子も、いまでは十代にちがいない。「あどけない舌足らずがかわいらしい」という年齢ではないのである。そう考えると「子役」というのは、ずいぶん寿命の短い稼業ということになってくる。

考えてみると、「子役」というのは奇妙な役者である。
以前、キャラメルボックスの『ハックルベリーにさよならを』の舞台を観たことがあるのだが、主役のケンジ君という小学生の役を演じていたのは、大人の女性だった。だが、半ズボンをはいて、ランドセルを背負っているケンジ君は、足を広げて立つときの胸の張り具合といい、手をぐいっと差し出すときの勢いといい、小学生以外の何ものでもなく、観ているうちに、大人の女性が演じていることなど毛頭思わなかったものだ。

つまり、「子供を演じる」というのは、わたしたちがばくぜんと思い描いている子供の動きや感じ方を取り出し、再現してみせる、ということなのだ。記憶をさぐってみても、うちの弟は舞台のケンジ君のような動きは一度も見せたことがない。同様に、弟の友だちもケンジ君のような動き方をしていた記憶もない。ケンジ君の動きは、現実の、名前を持ったひとりひとりの子供の動きではなく、大人の側が「いわゆる子供」として思い描く、「実際にはどこにもいない子供」「ステレオタイプとしての子供」ということなのだろう。

実際の子役が演じる「子供」も、その「ステレオタイプとしての子供」である。役者であると同時に子供でもある彼や彼女が、日常そう考えたり感じたり行動したりするように演じるのではなく、「大人が思い描く子供」を演じて見せる。つまりは彼らの頭の中には、「子供をこういうものだと思い描いている大人」が住んでいるのだろう。

何もこれは「子役」に限ったことではなく、現実の子供だって、周囲の大人が期待するように、いかにも子供らしい動作で喜んで見せたりすることは、結構あるものだ。太宰治の『人間失格』の中にも、主人公が幼い頃から、ことさらに子供らしい道化を演じたことを告白する箇所があるが、実際、自分の喜ぶ顔を期待している親の前で、ことさらに「わーい」と喜んで見せたことのない子供の方が少ないのではあるまいか。

だが、テレビや映画に出てくる子役というのは、どこか不自然なものだ。うまければうまいほど、その不自然さが際だつような気がする。

舞台の上、大人の演じるケンジ君は、實川貴美子さんという演じている女性の痕跡をすっかり消していたが、テレビや映画に出てくる子供たちは、「子役が演技をしている」ということを決して忘れさせてくれない。達者であればあるほど、「この子、うまいなあ」と思ってしまうし、ついでに「どんな大人になるのだろう」といういらないことまで考えてしまう。

おそらくそれは、彼ら彼女らが現実の「子供」ではなく、また「子供を演じている役者」でもなく、「子供」のすがたかたちを持ちながら「子供をこういうものだと思い描いている大人として演技をしている」という不自然さからくるものではあるまいか。だからこそ達者であればあるほど、自然とは離れていき「演技」が際だつ、ということになっているのだろう。気の毒ではあるけれど、「子役」が「子役」である以上、その不自然さは逃れられない。そうして、観客の側が子役に対して賞賛する「うまい」「かわいい」という言葉も、そのある意味での不自然さを、別の言い方で言っているだけではないのだろうか。

だが、その子役たちが大きくなると、話はいささかやっかいなことになってくる。彼らの頭の中にいる「子供をこういうものだと思い描いている大人」が歳とともに成長し、その「頭の中の大人」が思い描く「子供像」もまた少しずつ成長していけば良いのだが、多くの場合はそうはなっていないように思える。「頭の中の大人」が成長しないまま、実年齢だけが成長し、ときにそれを追い越すようになったとしたら。彼ら、彼女らは自分たちがいったい何を演じたら良いのか、わからなくなってしまうのではないか。

何というか、残酷な話であるように思う。
あのヒヨコの中で歌っていた女の子がそんなことにならなければ良いのだけれど。