陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フィッツジェラルド「崩壊」 その3.

2011-08-04 23:09:41 | 翻訳
その3.



それがこの物語の実際の結末だ。だがその皿をどうしたかの話は、あとに取っておこう。いわゆる「月が満ちるのにまかす」というわけだ。いまはただ、崩壊の瞬間からおおよそ一時間、ひとりきりで枕を抱きしめていた、というだけで十分だろう。

次第に私にもわかってきた。思えば二年も前から、持ってもいない財産を抵当に、金を引き出していたようなものだったのだ。私がかたにしたのは自分自身、肉体も精神もまるごとつぎこんでしまった。ところがそれと引き換えに手にしたのは、どれだけささやかなものであったか――自分の進むべき道に誇りを抱き、守り抜いた独立に確信を抱いていたときもあったというのに。

 その二年ほど前から、私は何ものかを守ろうとして――心の平安とでもいったらいいのか――、かつて自分が愛したあらゆるものから離れようとした。そのせいで、朝、歯を磨くことから、夜、食事を友人とともにすることまで、日々のあれやこれやがすべて、一苦労になってしまっていた。とはいえ、私は人も物も愛する気持ちを失って久しかったので、好きなふりをしていたにすぎなかったのだが。自分にもっとも近しい人びとに対する感情でさえ、愛そうとする努力でしかなく、行きずりの関係の人びと――編集者であるとか、タバコ屋の店員、友人の子供といった連中にいたっては、昔からの義務感の名残で接していたにすぎなかった。

同じ頃、私はラジオの音や雑誌の広告、線路のきしむ音や、逆に、田舎の死んだような静けさにもがまんならなくなっていた――優しく接してくる人には、軽蔑しか感じなかったし、厳しく当たってくる人には、仮に表には出さなかったとしても、内心では猛然と食ってかかっていた。眠ることができないせいで夜がいとわしく、夜を連れてくる昼が憎かった。私は心臓を下にして眠るようになっていた。そうすれば、たとえわずかではあっても心臓が余分に疲労し、それだけ早くありがたい悪夢のひとときを迎えることができる。悪夢がカタルシスとなり、よりよい次の日を迎える力を与えてくれるように思えた。

 だが、そんな私にも、じっと見つめていられるような場所や人の姿があった。中西部出身者の多くがそうであるように、私も生来、人種的偏見というものが希薄である。私はずっと、北欧系のブロンドにひそかなあこがれを抱いていた。故郷のセントポールでは、彼女たちはポーチで顔見せすることはあっても、当時のいわゆる社交界にデビューするには、経済的に無理だった。“娘っ子”と呼ぶには上品すぎるが、スポットライトを浴びるには田舎くさい。そんな女たちの輝く髪を一目見るために、私は何ブロックも歩いたのだ。私が決して知り合いにはなれない娘たちの明るく輝く髪を見に。まあこれはつまらない街の小話のようなものなのだが。

話が横道にそれてしまったが、近ごろでは人の姿が視野に入ってくるだけで、がまんならなかった。アイルランド系もイギリス系も、政治家も外国も、ヴァージニア州人、肌の色の濃い薄いを問わず黒人、ハンターも店員もブローカーも、作家という作家も(作家という人種は、やっかい事を永続化させることにかけては人後に落ちない種族だから、とりわけ慎重に避けた)――あらゆる階級という階級、その階級のうちの一人残らずを……。

 何かにしがみつこうと、医師や十三歳になる前の少女、八歳より上の育ちの良い男の子に好意を寄せるようになった。こうしたごく狭い範囲の人が相手のときは、心も落ち着き、幸せでいられた。言い忘れていたけれども年配の男性も好きだった。七十歳以上の老人か、外見が老けていれば六十代でもかまわない。スクリーンで見るキャサリン・ヘップバーンの顔も、たとえ彼女が尊大だと評判が悪かったにせよ、私には好ましかった。それにミリアム・ホプキンスの顔も。古い友人ならば、一年に一度会うぐらいがちょうど良く、あとはその名残りを思い出せれば十分だった。

 なんだか人間の感情をどこかに置き忘れたような、育ち損ないのような言いぐさではあるまいか? とはいえ、この子供好きは、崩壊のまぎれもない予兆のひとつなのである。




(この項つづく)



フィッツジェラルド「崩壊」 その2.

2011-08-02 23:07:35 | 翻訳
その2.



 さて、人間の壊れ方にもいろいろある――頭が壊れることもあるが、そうなれば自分のことを決める権利も、他人に奪われてしまう。体が壊れれば、病院の白い世界に身を預けるしかない。神経が壊れることもある。ウィリアム・シーブルック(※フィッツジェラルドやヘミングウェイらとともに「ロスト・ジェネレーション」の一員とされたジャーナリスト。アフリカや中東や中南米を旅行し、食人やヴードゥー、オカルトについての書物を著した)は、あまり感心できない彼の作品中、自分が生活保護を受けるようになった顛末を、映画の結末でもあるかのように得意げに語っている。彼がアルコール依存症になった原因、というか、依存症の症状が現れるようになったのは、神経系の崩壊によるものだった。ところが私の場合、現れたのはそんな複雑なものではなかった――発症までの六ヶ月間、コップ一杯のビールさえ口にしていなかったのだから――。神経の反射作用が抑制を失って、怒り散らしたり、やたらと涙を流すようになったのだった。

 ここで人生にはさまざまな打撃があるという本題に戻るわけだが、私が壊れたと気がついたのは、打撃を受けたその瞬間ではなく、むしろ小康状態に入ってからなのである。

 その少し前に、私はとある名医の診察室で重大な宣告を受けていた。だが当時を振り返ってみると、その時期に住んでいた町での生活を、宣告されてから後も、いたって平穏に続けていたのである。小説の登場人物のように、病気に打ちのめされることもなく、やり残した仕事の多さや、あれやこれやの責任の重圧に、思い煩うようなこともなかった。医療保険にはちゃんと入っていたし、いずれにせよ私は、自分の手の内にあるものをたいして慎重に扱うたちではなかったのである。自分の才能でさえそうだった。

 ところがある日突然、本能的に、私はひとりにならなくてはいけないと感じた。人間の顔など、金輪際、見たくない。いままでずいぶん大勢の人に会ってきた――まあ、ごく平均的な人付き合いをしてきたといえるだろう。だが、ほかの人と異なっていたのは、自分の傾向、たまたまつきあいが生じたあらゆる階層の人びとと、自分自身、すなわち自分の思いや運命を、一体化しまうという傾向だった。常時私は人を救ったり、人に救われたりしていたのだ――ワーテルローでナポレオンと戦ったときのウェリントンが味わったような感情を、たった半日で経験することもめずらしくなかった。憎んでもあまりある敵と一心同体の友しかいない世界に、私は生きていたのである。

 だが、そのときの私は、絶対的な孤独を求めた。そこで日々の務めから自分を完全に切り離すための手はずを整えたのである。

 それは決して不幸な時期ではなかった。町を出てしまえば人も減る。私は自分がひどく疲れていることに気がついた。だからいくらでも怠惰に過ごすことができたし、そうするのがうれしかった。一日に二十時間眠ったかと思えば、うつらうつらとまどろみながら過ごし、その合間、目が覚めている間は、決してものを考えまいとした。考える代わりに、リストを作るのだ――何百ものリストを作っては、破り捨てた。騎兵隊長のリスト、フットボールの選手のリスト、都市のリスト。流行り歌や投手のリスト、楽しかった時や趣味、これまでに住んだ家、除隊して何着スーツをこしらえ、靴を買ったか(ソレントで買ったスーツは縮んだし、エナメルの靴とドレス・シャツとカラーは、身につけることもなく何年も持ち歩いたが、靴は湿気てしわくちゃになり、シャツとカラーは黄ばんで糊が傷んだから、数のうちに入れてやらない)……。それから好きになった女性のリスト、人間性の面でも才能の面でも私より劣っていたくせに、私を馬鹿にした連中のリスト。

 ――するとどういう風の吹き回しか、驚いたことに私は快復したのだ。

 ――と同時に、良くなっていると知らされたまさにその瞬間、ふるぼけた皿のように私は砕け散ってしまっていた。




(この項つづく)





フィッツジェラルド「崩壊」 その1.

2011-08-01 23:26:27 | 翻訳
今日からしばらくフィッツジェラルドのエッセイ“Crack-up”の翻訳をお送りします。なるべくがんばって毎日訳そうと思いますので、十日くらいで訳せるかと思います。
原文を読みたい方はhttp://www.esquire.com/features/the-crack-upでどうぞ。

* * *

Crack-up(崩壊)

by F. Scott Fitzgerald



いうまでもなく人生はみな崩壊の過程だ。
だが、手ひどい打撃――つまり、不意に襲ってくる、というか、外からふりかかってくるように感じられる打撃ならば、思い出しては誰かのせいにしてみたり、落ちこめば友だちに愚痴ったりするものではあっても、影響が一気に現れるようなことはない。ところがそうではないタイプの打撃、言うなれば内側からやられてしまうような打撃は、もはや手の施しようのないところに来るまで気がつかないし、気がついたが最後、自分はある面においては二度と元には戻れないのだ、と悟るほかない。外からの破壊作用は一瞬のうちに終わる――だが、後者はやられた瞬間を気づかせないままに、ある日突然、致命傷となってあらわれる。

 この短い自伝を続ける前に、一般論をひとつあげておこう。人が第一級の知性を備えているか否かは、相反するふたつの考えを同時に頭の中に抱きながら、なおかつ行動できるかどうかによる。事態が絶望的であることは充分に理解しながらも、そうはさせるものかと歯を食いしばる人のように。……こうした人生観は、青年期の私にはぴったりくるものだった。

当時の私は、信じられないようなことや、実感のともなわないこと、ときには「あり得ないこと」すら現実になっていくのを目の当たりにしていた。そんなわけで、多少なりとも気の利いた人間なら人生なんてどうにでもできるものだ、と思っていたのだ。人生なんて知性か努力、あるいはその両方を適当にまぜあわせたもので、簡単に屈服させることができる、と。流行作家というのは、なかなかすてきな職業だ――映画スターほど有名ではないにせよ、もっと長い間、記憶に留めておいてもらえるはずだ。政治家や宗教家ほど大衆を動かす力は持てないだろうが、はるかに自由だろう。むろんどんな仕事だって、実際に取りかかってみれば、不満な面はかならずあるだろうが――とはいえ、こと私に限っては、ほかの選択肢は存在しないも同然だったのである。

 1920年代が私の二十代を追いかけるようにして過ぎていき、少年期に味わったふたつの失望感――大学でフットボールをやれるほど体が大きくならなかった(もしくはうまくならなかった)ことと、戦時中、外国に派兵されなかったこと――は姿を消したものの、子供じみた白日夢を見るようになったのである。英雄になった自分の姿を空想する。そのうち、眠れない夜にも安らかな眠りが訪れた。人生の途中で立ち現れる数々の難題も、時が来れば解決するように思われたし、解決のために実際に行動するのは困難であっても、空想のおかげで頭はすっかり疲れ果て、ほかの問題どころではなかったのだ。

 十年前の私にとって、人生はおおむね自分だけの問題だった。努力なんてむなしいものだという気持ちと、懸命に努力しなくては、という気持ち、矛盾するふたつの気持ちのバランスを取ることが必要だった。失敗するにちがいないとわかっていても、なお、「成功してやる」と決意を固めること――さらに言えば、過去に対する絶望の思いと、未来に向けた高邁な心構えという矛盾するふたつの意識のバランス。もし普遍的な苦しみ――家庭内の、職業上の、さらに人との関係からくる苦しみ――を乗り切ることができるなら、「自我」は虚空に放たれた矢のように、どこまでも飛び続けるだろう。無から無へと。やがて重力によって地上に引き寄せられるまで。

 こうした状態が十七年間――その間でわざとぶらぶら過ごした一年間を含めて――続いた。今日やり遂げた仕事が、明日を切り開いていく。もちろん生活はぎりぎりだったが「四十九歳まではいける」と思っていた。「そこまでなら大丈夫、やっていける。おれのような生き方をしているような人間に、それ以上何が望める?」

 ――そうして、四十九歳になるまであと十年というところで、不意に私は気がついた。自分が早くも壊れてしまっていることに。




(この項つづく)