陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フィッツジェラルド「崩壊」 その6.

2011-08-10 23:22:52 | 翻訳
その6.

 最初の経験は二十年前のことである。マラリアと診断されて、プリンストンの三年次を休学することになったのだ。もっとも十数年後に撮ったレントゲン写真で、実は結核だったことが明らかになるのだが、ともかくそのときは症状も軽かったために、数ヶ月後には復学することができた。ところがいくつかの地位は、失ったきりになってしまった。最大の痛手は「トライアングル・クラブ」(※プリンストン大学のミュージカル・コメディ劇団)の部長の座を失ったことであり、そのほかにもミュージカル・コメディの構想を失い、おまけにその学年を留年することになった。私にとって大学は、もはや前と同じ場所ではなくなってしまったのだ。もう優秀賞のバッジにもメダルにも、手は届かない。三月のある昼下がり、私は自分が望んでいたことごとくが、手から滑り落ちてしまったように感じていた――その夜、私は初めて女性の幻影を追い求めた――そのおかげでほんのひとときではあっても、ほかのことはすべてどうでもよくなってしまうような。

 だがあとになって、大学時代に大きなチャンスをものにしそこねたことが、かえって良かったのだとわかってきた――委員になる代わりに英詩に取り組んだ。それがどういうものかわかってくると、今度は創作を学び始めた。バーナード・ショーの格言「ほしいものが手に入らないのなら、手に入るものを好きになった方がよい」にならうなら、この休息は幸運だったといえよう――当時の私は、人の上に立てるチャンスを失ったことで、どん底の気分だったのだが。

 ともかくそのとき以来、私はどれほど使用人が無能でも、首を切ることができなくなってしまったし、そんなことができる人には感嘆するしかなかった。人を自分の支配下に置こうという野心は、うち砕かれ、跡形もなく消え失せた。私の日々は、まじめくさった白日夢のようなもので、別の街に住む一人の娘に手紙を書くことだけが生きがいとなった。人は打撃から立ち直ることはできない――別の人間になるのだ。つまり、新しい人間が、新しいものに引かれるだけなのである。

 もうひとつ、いまと同様の情況に陥ったのは、第一次世界大戦後、私がまたしても背伸びをしすぎた時のことだ。

貧乏のせいで失恋する、というありがちな話である。常識に従った彼女の方が、ある日、終わりにしよう、と言ってきたのだ。絶望の淵に沈んだ長い夏、私は手紙を書く代わりに小説を書いた。結局万事うまくいったのだが、うまくいったのは愛のためではなかった。ポケットの中で金をじゃらじゃらいわせながら、一年後に彼女と結婚した男は、その後ずっと有閑階級に対する根強い不信と憎悪を抱くことになったのである――革命家のように信念があったからではなく、小作人の胸にくすぶる憎悪ゆえに。それからどれほど歳月が過ぎても、私は友人連中はどこからその金を手に入れたのだろうと考えるのをやめることができなかった。例のあの“初夜権”(※封建領主が家臣の結婚初夜にその花嫁と一夜をともにすることを要求できる権利)を、私の妻に向かって行使しようとするような手合いではあるまいか、と。

 こうして過去十六年間、金持ちに対して不信の念を抱きながら、彼らの中でもある種の連中が持つ、軽やかさや生活の中で見せる優雅さがほしくて、金のために働き続けた。その間、何頭もの駄馬を乗りつぶしてきた。馬の名前のいくつかはいまでも覚えている――「傷つけられた誇り」「くじかれた期待」「見せびらかし」「ひどい痛手」「金輪際ありえない」……。

やがて二十五歳になり、三十五歳を過ぎても、一向にパッとしなかった。だがその間も、一度も、ほんの一瞬たりとも、あきらめたことはない。善良な人びとが自暴自棄に陥るのを見てきた――あきらめて自殺した者もいれば、折り合いをつけて私よりはるかに大きな成功を収めた人もいる。けれども私の士気は、みっともないことをしでかしたときに感じる自己嫌悪のレベルを下回ることはなかった。困難に出遭えば、かならず希望を失うと決まったものではない。関節炎と関節がこわばることがちがうように、失望には失望の病原菌がある。



(この項つづく)