陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

論争は虚しい

2008-04-28 22:59:26 | weblog
わたしは基本的にweb上では論争をしないことにしている。
たとえ「これはひどいな」という意見を見たとしても、たとえそれに対する反論を頭のなかで考えてみたり、親しい人に「こういう意見を見たけれど、おかしくはないか」と話すことはあるかもしれないが、直接、その人に向かって、たとえばコメントを書きこむようなことはしない。

というのも、拠って立つところが明らかにちがっている場合、議論自体が成立しないからだ。

もしかしたら、たとえ見解が対立したとしても、事実と照らし合わせてみれば、正しい見解は明らか、と思っている人が多いかもしれない。
ところが、「事実」だけならどんな「事実」だって見つけることができるのだ。
たとえばアポロが実際には月面着陸していない、と、まことしやかに主張している人々が依拠しているのは、いくつもの「事実」ではあるまいか。
陰謀論にしても、トンデモ論にしても、主張する人々は、それを証明するために、おびただしい資料のなかから「事実」をかき集めている。
彼らに対して、それが事実ではない、と別の「事実」を対峙させても、まったく不毛なだけだ。

ここから言えることは、どんな意見に対しても、必ず反論はできる、必ず反証は可能だということである。たとえ彼以外の人全員が眉をひそめるような意見であっても、主張している人物は、どこからか「事実」を見つけてくるだろうし、自分に対する反対意見は決して聞こうとはしないだろう。
トンデモ論を主張する人に欠けているのは、「事実」ではなく、バランス感覚なのである。バランス感覚の欠けている人間の意見を変えさせることは、言葉には不可能なのだ。
そういう人の見解を目の当たりにしたら、通りすぎるしかない。

それでも論争好きな人はいるのかもしれない。
自分の主張を展開させていく言葉の運用能力に自信のある人。「争い」という状態を楽しむことさえできる人。

けれど、残念ながら、そういう人も、相手が一歩も譲歩しなければ、議論は平行線をたどるだけだ。

もちろん論争に勝つことはできる。
だが、それには条件がある。
・相手とあなたが同じ理論上の土俵に乗っていること
・相手があなたの意見に耳を傾ける度量を持っていること
・相手があなたの意見をきちんと理解できる知性を持っていること
つまり、あなたが論破できるのは、その論点においては意見を異にしているかもしれないが、それ以外の点ではあなたと多く意見を同じくした、知的で人間的にも優れた人物なのである。

だが、そんな相手なら、論破するより、相手と自分の一致点を探った方が良くはないか。
話し合うなか、自分自身の意見も変わり、相手も変わり、結局は双方の意識が深まっていくような、そんな話し合いができる相手なんじゃないだろうか。

なのにそういう相手であるにもかかわらず、自分の方が正しいのだ、間違っている相手を屈服させずにはおれない、と一歩も譲るつもりがないとしたら。
もしかするとあなたは
・相手の意見に耳を傾ける度量を持っておらず
・相手の意見をきちんと理解できる知性を持っていない
のかもしれない。