陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール「味」その3.

2008-04-11 23:29:42 | 翻訳
その3.

 つぎのワインを試そうという考えは、マイクの気持ちをふたたび引き立てたのだろう、急ぎ足にドアを出ていった。まもなく戻ってきたときには、先ほどにくらべてずいぶんゆっくりした慎重な足取りで、両手でワイン・バスケットを抱えている。なかには黒っぽいビンが寝かしてあった。ラベルの側が下向きになっていて見えない。「さて!」テーブルに近寄りながら大きな声を出した、「リチャード、これはなんだと思う? きっとわからないだろうな!」

 リチャード・プラットはゆっくりと振りかえっるとマイクを見上げ、それから小さな籐かごに収まっているビンに目を移すと、眉を持ち上げた。眉はいくぶん傲慢な弧を描き、それと一緒にぬれた下唇を突き出したので、そのとたん、尊大で醜い表情があらわになった。

「君にはわからないだろうな」マイクはもういちど言った。「百年経ったところで」

「クラレットだろう?」リチャード・プラットは見下したように言った。

「もちろん」

「おそらく小さな葡萄園のものだろうな?」

「そうかもしれないな、リチャード。だが、そうじゃないかもしれないぞ」

「だが当たり年のものだろう? それも最高級の年の?」

「その通り。その点に関しては保証する」

「じゃ難しいわけがないさ」リチャード・プラットはひどく退屈そうな表情で、うんざりしたように言った。ただ、私にはその間延びしたしゃべりかたや退屈そうなそぶりが奇妙なものに映った。眉間には何か悪意を感じさせる影があったし、その物腰には真剣そのもののところがあって、それを見ていると、なんとなく不安な思いにかられてしまうのだった。

「これは実際、簡単じゃないはずだ」とマイクは言った。「これに関しては、あえて君に賭けてみろとは言えないな」

「いやはや。どうしてまたそんなことを?」ふたたび眉が持ち上がり、冷ややかな、そのくせ熱のこもったまなざしが向けられた。

「だってほんとうにむずかしいからさ」

「そりゃまたありがたいお褒めのセリフだな」

「そりゃね」マイクは言った。「君がどうしても、って言うんだったら、喜んで賭けたっていいんだよ」

「銘柄なんてぼくにしてみたら何でもないさ」

「じゃ、賭けるというんだね?」

「よろこんで賭けさせていただくよ」リチャード・プラットは言った。

「結構。じゃ、いつものようにいこう。このワインひとケースでどうだ」

「君はぼくが当てられるなんて思ってないんだろう」

「実際、どうしたって無理なものは無理なんだ」マイクは努めて礼儀正しく振る舞おうとしていたが、プラットの方は、一連のなりゆきを小馬鹿にしている様子を隠そうともしていないらしかった。にもかかわらず、彼がそのつぎに聞いたことは、彼がある種の興味を抱いていることを、はからずも暴露していた。

「もっと賭けるつもりはないか?」

「そりゃ意味がない、リチャード。ひとケースで十分だ」

「五十ケースでどうだ?」

「そんなこと、ばかばかしいじゃないか」

 マイクは食卓の上座の自分の椅子の背後にじっと立ったまま、籐かごに鎮座しているワインのボトルを大事に抱えていた。鼻腔の周囲は白っぽく血の気が失せて、口は固く引き結ばれている。

 プラットは椅子に背中をもたせかけ、マイクを見上げながら、眉を持ち上げたまま、目を半ば閉じて、唇の端に微笑を浮かべていた。そうして、私がふたたび見た、というか、見たように思ったのは、その表情にある何かしらおぞましいものだった。眉間の熱っぽい影、その目、黒い瞳の奥に、秘められた狡猾さのようなものがゆっくりときらめいたのだ。

「ということは、君はもっと大きなものを賭けるつもりはないんだな?」

「ぼくだったらかまわない、まったくね」マイクは言った。「お望みなら何だって賭けてやろうじゃないか」

 三人の女たちと私は黙ったまま、ふたりの男を見ていた。マイクの細君は気遣わしげな表情になっている。口元は不機嫌に曲がり、いつ割って入ったとしてもわたしは驚かなかっただろう。私たちが食べるはずのローストビーフは、目の前の皿に載ったまま、ゆっくりと湯気がたちのぼっていた。

「ぼくの言うとおり何でも賭けるんだな?」

「そう言っただろう。もし君がそんなに言うんだったら、なんだって喜んで賭けてやる」

「一万ポンドでも?」

「もちろんさ、君がそれを望むならね」マイクはいまや自信満々だった。プラットが口にできるほどの金額なら、いくらでも応じることができることなど、よくわかっていたのだ。

「じゃ、何を賭けるかぼくが決めていいって言うんだね」プラットは重ねて聞いた。

「そう言っただろう?」

(この項つづく)