陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

借金の名人

2008-04-22 23:02:28 | 
実務には役に立たざるうた人と
我を見る人に
金借りにけり

 新潮文庫版の『一握の砂・悲しき玩具』の解説は、盛岡中学時代からの友人であり、のちにはその生活を支えもした金田一京助が書いている。彼は「啄木の生涯」をこう書き起こす。
 石川啄木は禅寺に生まれた神童だった。山寺のことで、もとより豊ではなかったけれど、生活難の何物たるかを知らずに成長した。それが、二十歳になった五月、処女詩集『あこがれ』を出版した得意の絶頂に、暗澹たる運命が前途にこの少年天才を待ち設けていようとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。

 啄木は『あこがれ』一巻をふところに、「故郷の閑古鳥を聞きに、行って来る」というハガキをわれわれに飛ばして、突然帰郷した。あとになってわかったが、当時、郷里の檀家との間にいざこざが起こって、啄木の両親が寺を出て還俗し、盛岡市帷子小路に一家を構え、年来の恋人であった堀合節子嬢を迎えて結婚式を挙げさせようとする両親の電報や手紙で招き寄せられての帰郷だった。が、この帰郷を境に、まだ金をもうける道を知らなかった二十歳になったばかりの詩人の弱肩の上に、一家扶養の重荷が一度にのしかかって来たのであった。そして、身を終わるまでふたたび浮かび上がることのできない赤貧のどん底に、あえぎ通さなければならなかったのである。
(金田一京助『一握の砂・悲しき玩具』解説)

こののち、盛岡からまた生まれ故郷の渋民村へ、そこから一年間、北海道を放浪することになる。そうして明治四十一年四月、二十三歳の一(はじめ)青年は、上京する。
啄木は釧路から函館までは船で、そこから小樽までは汽車で行き、小樽に置き去りにした家族と会った。四月二十四日の夜、再び函館から三等船室の客となり横浜へ向かった。
 最初函館に着いたとき宮崎郁雨から十五円借りた。小樽へも七円贈って貰い、その金を妻の節子にわたした。横浜行きの船に乗るとき郁雨からさらに十円借りた。啄木は借金した相手とその額を十銭の単位まで生涯忘れることはなかったが、返すだけの経済的実力を持つ見込みはまったく立たなかったから、それはついに気休めのままに終わった。
(関川夏央『二葉亭四迷の明治四十二年』文藝春秋社)

金田一京助は「ふたたび浮かび上がることのできない赤貧のどん底に、あえぎ通さなければならなかったのである」と書いているのだが、この啄木の借金生活は、たとえば同じように一家が双肩にかかっていた樋口一葉のそれとはずいぶんちがった印象を受ける。啄木は上京した二十三歳の四月から、ローマ字で日記をつけはじめているのだが、そこにはこのような生活がうかがえる。

この年の五月から六月、啄木は「小説を二百二十枚ほどとと詩を八篇書き、短編小説の構想を十六本分練った」が、金銭的にはほとんど報われない。そうして「小説執筆の情熱が憑物の落ちたようにおさまった」あとのことである。
 六月二十三日からは雨になった。前日に散文詩三篇を生まれてはじめて書いてみた啄木は、その日も二篇書き、紫陽花と鉄砲百合の花を三十銭で買ってきた。百合の花のかおりが湿った空気に重たく漂う部屋で床についたが眠れずにいた彼は、ふと思いたって歌をつくりはじめた。朝までに五十五首、徹夜した翌二十四日の午前中には五十首をつくった。…
 夕方、赤い百合を買ってきて白百合の群に一本挿し、それから午前二時までに百四十一首つくった。
(引用同)

こうしたなかから「海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」などの歌が生まれたのである。

翌年三月、朝日新聞社に校正係の職を得る。月給二十五円。
 その頃まだ函館にあって友人の世話になっていた家族からは、就職したのならすぐにでも東京へ呼んでくれ、という懇願の手紙が再三届けられた。
 月給二十五円はいまの感覚で十五万円、家賃が安いから独身者なら暮らせる。労働時間は一日五時間にすぎない。三日に一度夜勤をすれば合計三十五円、家族三人の扶養も不可能ではない。…
 啄木は節倹するかわりに、活動写真と女性に逃避した。前借りした月給が手元にあると落ち着かない気分になり、浅草へ行って洋食を食べ、安価な娼婦を買った。
(関川夏央『本読みの虫干し』岩波新書)

啄木が返事を引き延ばしたにもかかわらず、六月になると待ちくたびれた家族が上京し、本郷区弓町の下宿屋での間借り生活が始まる。妻が子供を連れて家出するなど、経済的困窮ばかりでなく、妻と自分の母親のあいだの確執も啄木を悩ませた。
空き家に入り
煙草のみたることありき
あはれただ一人居たきばかりに

だが、啄木のそうした生活のなかから歌われたこうした歌は、現在のわたしたちが読んでも少しも違和感がない。たとえ不満がなくても、家族から離れただ一人になりたいばかり、という心情は、ひとり暮らしではない誰もが経験するものだろう。

「悲しき玩具」には、働く人の歌もいくつも見られる。『一握の砂』よりさらに、やさしい言葉で書かれた言葉は、さりげないようでいて、響きがある。日々のなかで簡単に移り変わる気分の一瞬をとらえているだけでなく、それをつなぎとめる言葉の隅々まで気が配ってある。こうした歌を見ていると、これが明治に作られたものだということを忘れそうになる。
家にかへる時間となるを、
ただ一つの待つことにして、
今日も働けり。

いろいろの人の思はく
はかりかねて、
今日もおとなしく暮らしたるかな。

おれが若(も)しこの新聞の主筆ならば、
やらむ――と思ひし
いろいろの事!

だが、啄木の勤務振りはいい加減だったらしい。「三月はまじめに出社したが、四月は十八日、五月は二日しか出なかった」(『本読みの虫干し』)とある。
『ローマ字日記』にある明治四十二年四月から六月まで、寸借と入質を含めた啄木の総収入は九十八円二十五銭だった。たまった下宿代を三十七円入れ、必要経費は二十六円ほどだった。残る三十五円は、娼婦、酒など不要不急の出費、つまり無駄遣いである。…
 啄木の貧乏はおもに啄木自身の責任である。結局彼は望みどおりに病気になり、現代の価値で約一千万円の多重債務者のまま明治四十五年四月、二十六歳で死んだ。
(『本読みの虫干し』)


あたらしき洋書の紙の
香をかぎて
一途に金を欲しと思ひしが(『一握の砂』)