福島で、小学校の校庭で取り除いた放射線濃度の高い土の、埋め立て予定地付近の住民が、勝手に持って来られてはこまる、と反対しているというニュースを読んだ。
NIMBY、Not In My Back Yard(うちの裏庭にはゴメン)という言葉は、刑務所や斎場、ゴミ焼却場などの建設・移転をめぐってよく出てくる言葉だが、反対される施設の性格にも、事態の緊急度にもよるものではあるし、簡単に住民エゴと言ってすませるわけにもいかない問題である。
わたしたちは誰でもある面では道徳家であって、異常な行為、たとえばさしたる理由もなく人を殺すような人間、利益を追求したあげく、多くの人に危機をもたらすような企業に対しては、ひどく腹が立つし、許せない、という気にもなる。
それが、たとえば殺人を犯したとしても、容疑者が法律で保護されるような人間であったり、企業の行為が法律的に見て問題がなかったりして罪を免れたりすると、何とも言えない気持ちになってくる。現行の法律や規則が、正義にかなっているものだろうか、と、疑いの目を向けたりもする。
それに対して、法律や規則がそう決まっているのだから、個々の具体的な事例がそれをはみ出しているように見えても、感情的になることなく、その法律や規則に従うべきである、という人も出てきて(多くは「専門家」と呼ばれる人びとである)、そういう人びとは多くの場合、「余計なもの」を切り捨てながら進んで行く。
だが、実際の生活の中では、わたしたち自身が、全体的な関連のうちにいろいろな規則を配分し、人に守ってもらうことを前提に、さまざまな案配を行っている。そんな中で起こる具体的な出来事に対し、いちいち対処を求められれば、困ってしまうだろう。
そのように、わたしたち自身が、一面、道徳家であり、また別の一面では組織の一員でもある。だからこそ、ふたつの乾し草の山の間に連れて来られたロバのように、どう考えたら良いかわからなくなって、立ちすくんでしまうのだろう。
けれど、そういうときにこそ、「自分の考え」というものが生まれてくる可能性があるのではないだろうか。さまざまな立場にいる人、これからの社会を作っていくはずの子供のこと、実際にその被害に遭うかもしれない人、さまざまな人の話を聞くことで、それぞれの考えの背景と周囲を持っていることを知る中で、自分だけの考えを作っていくことができるかと思うのだ。
もしかしたら、それは他愛のない一時の感傷かもしれないし、実現不可能な夢想かもしれない。つぎの日にはもう顧みられることのない気持ちかもしれない。それでも考え、言葉にし、人に言ってみる価値はあると思うのだ。ときに、嘲罵や非難を浴びせかけられるかもしれないし、盲点を突かれて、驚き、腹を立てることになるのかもしれない。それでも、その非難や嘲罵さえも自分の考えに取り入れ、さらにもっとよく考え、新しい結論を出すことができれば、と思うのだ。
現実を見るとともに、はるか彼方にあるはずの「正義」をも凝視しながら。
NIMBY、Not In My Back Yard(うちの裏庭にはゴメン)という言葉は、刑務所や斎場、ゴミ焼却場などの建設・移転をめぐってよく出てくる言葉だが、反対される施設の性格にも、事態の緊急度にもよるものではあるし、簡単に住民エゴと言ってすませるわけにもいかない問題である。
わたしたちは誰でもある面では道徳家であって、異常な行為、たとえばさしたる理由もなく人を殺すような人間、利益を追求したあげく、多くの人に危機をもたらすような企業に対しては、ひどく腹が立つし、許せない、という気にもなる。
それが、たとえば殺人を犯したとしても、容疑者が法律で保護されるような人間であったり、企業の行為が法律的に見て問題がなかったりして罪を免れたりすると、何とも言えない気持ちになってくる。現行の法律や規則が、正義にかなっているものだろうか、と、疑いの目を向けたりもする。
それに対して、法律や規則がそう決まっているのだから、個々の具体的な事例がそれをはみ出しているように見えても、感情的になることなく、その法律や規則に従うべきである、という人も出てきて(多くは「専門家」と呼ばれる人びとである)、そういう人びとは多くの場合、「余計なもの」を切り捨てながら進んで行く。
だが、実際の生活の中では、わたしたち自身が、全体的な関連のうちにいろいろな規則を配分し、人に守ってもらうことを前提に、さまざまな案配を行っている。そんな中で起こる具体的な出来事に対し、いちいち対処を求められれば、困ってしまうだろう。
そのように、わたしたち自身が、一面、道徳家であり、また別の一面では組織の一員でもある。だからこそ、ふたつの乾し草の山の間に連れて来られたロバのように、どう考えたら良いかわからなくなって、立ちすくんでしまうのだろう。
けれど、そういうときにこそ、「自分の考え」というものが生まれてくる可能性があるのではないだろうか。さまざまな立場にいる人、これからの社会を作っていくはずの子供のこと、実際にその被害に遭うかもしれない人、さまざまな人の話を聞くことで、それぞれの考えの背景と周囲を持っていることを知る中で、自分だけの考えを作っていくことができるかと思うのだ。
もしかしたら、それは他愛のない一時の感傷かもしれないし、実現不可能な夢想かもしれない。つぎの日にはもう顧みられることのない気持ちかもしれない。それでも考え、言葉にし、人に言ってみる価値はあると思うのだ。ときに、嘲罵や非難を浴びせかけられるかもしれないし、盲点を突かれて、驚き、腹を立てることになるのかもしれない。それでも、その非難や嘲罵さえも自分の考えに取り入れ、さらにもっとよく考え、新しい結論を出すことができれば、と思うのだ。
現実を見るとともに、はるか彼方にあるはずの「正義」をも凝視しながら。