陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

J.G. バラード「時の庭」その4.

2011-04-13 23:30:58 | 翻訳

 そのつぎの日から、夕刻になるたびに、ひとつ、またひとつと伯爵は花を摘んでいったが、テラスの真下にある小さなつぼみだけは、妻のために残しておいた。それ以外は手当たり次第、数を数えることも、節約することも一切せず、必要に迫られれば小さなつぼみをふたつかみっつ、まとめて摘み取ることもあった。迫り来る大群は、いまや二つ目と三つ目の頂きに到達し、膨大な数の人びとのために、地平線はまったく見えなくなってしまっていた。テラスからは、足を引きずりながら、力をふりしぼって最後の丘の手前のくぼちを進む彼らの姿が見える。ときおり怒声やむち打つ音も交えたいくつもの声が聞こえてくる。荷車が右へ左へとかしぎ、何とか安定させようと押している人びとも苦労しているらしかった。だが、アクセル伯爵の目には、群衆の中ではただのひとりもどこへ向かっているのか知っているものはいないように映った。むしろ誰もが前を行く人間の踏むあとをそのまま自分が踏んでいるのだろう。ただ黙々と距離を重ねていくことだけでまとまっているのだ。

 こんなことを期待することに意味がないのはわかっていたが、伯爵は地平線の彼方にいるほんとうの主軸部隊が進行方向を変えてくれないものか、と思った。そうすれば全体の進行方向も少しずつ変わっていき、屋敷を逸れてくれるのではないか、あたかも潮が引くように、平原から退却していってくれるのではないか、と。

 いよいよ明日、という夕べ、伯爵は時の花を摘んだ。群衆の先頭集団は三番目の丘の頂上を越え、そこから溢れ出つつあった。伯爵夫人を待つあいだ、伯爵は残っているふたつの花を見下ろした。どちらもまだ小さなつぼみで、明日の夕刻、彼らを戻すことができるのも、ほんの数分といったところだろう。花が死に絶え、ガラスの茎ばかりが宙に突き出して、庭全体を見渡しても、花はどこにもなかった。



 翌朝、伯爵は静かに書斎へ入っていき、稀覯本の写しを縁飾りのついたガラス蓋のケースに収め、封をした。それからゆっくりと肖像画のかかった廊下を歩いて、一枚一枚、入念にガラスを磨き、それから机を片づけると、ドアを閉めて鍵をかけた。午後いっぱいは客間で妻が装飾品のほこりを払い、花瓶や胸像をまっすぐにならべるのを、出しゃばらないように手伝うことで過ごした。

 夕刻、太陽が屋敷の背後に沈む頃には、ふたりとも疲れ果て、ほこりまみれになっていたが、一日中ほとんど言葉を交わすこともなかった。やがて妻が音楽室へ向かおうとしたとき、伯爵は妻を呼び戻した。

「今夜はふたり、一緒に花を摘もうじゃないか」といつもの調子で言った。「それぞれ一本ずつ」

 伯爵はちらりと石塀の向こうに目をやった。一キロも離れていないところから、ぼろをまとった軍隊の鈍いうなり声や、鉄製の武器や鞭の鳴る音が、屋敷に向かって近づいてくるのが聞こえる。

 アクセル伯爵は急いで、サファイアほどの大きさのつぼみを摘んだ。それが弱々しくきらめくと、その瞬間、外の騒音は止んだが、じきにまた、いっそう大きな音となって戻ってきた。

 喧噪に耳をふさぎ、アクセル伯爵は屋敷を見回し、ポーチコに六本立っている柱を数えた。それから目を芝生から銀色に光る湖に目を移していく。水面に残り日が反射し、丈の高い木々が芝生に落とす影はゆっくりと動いていく。長年、夏になると妻と腕を組んで渡った橋を渡るのを、伯爵はためらった。

「あなた!」

 喧噪が外の空気をふるわせる。わずか二十メートルか、三十メートルのところに千人もの声がとどろいた。石がひとつ石塀の向こうから飛んできて、時の花の中に落ち、ガラスの茎を数本折った。石はさらに塀の向こうから雨のように降り注ぎ、伯爵夫人が夫の所へ駆けてきた。そののち、重い瓦が空気を切り裂いてふたりの頭上を越え、温室の窓をくだいた。

「あなた!」伯爵は妻の体に腕をまわし、抱き寄せた肩がスーツの襟を押し、曲がった自分の絹のネクタイをまっすぐに直した。

「早く、最後の花だ!」そう言って、妻の手をとって階段を下り、庭へ入った。夫人は宝石の指輪が光る指で、つぼみの茎をつかんで手折ると、両手に挟んでゆっくりとゆすった。


(明日最終回)