陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

J.G. バラード「時の庭」その2.

2011-04-10 22:48:13 | 翻訳

その2.

 伯爵が花を手にテラスに戻るあいだに、花はきらきらと光ながら溶け始めた。核の中に封じ込められていた光が、ついに放出されたのである。次第にクリスタルは溶けだし、外側の花弁だけが無傷なまま残った。アクセル伯爵を取り囲む空気が明るく、鮮やかなものになっていき、翳りゆく中を斜めの光が照らした。不思議な光がしばらくのあいだ、夕刻に作用し、時間と空間の次元を変えた。玄関ポーチを覆う闇も、屋敷に降り積もった歳月も、すっぱりとはぎとられ、不意に、かつて夢で見たことがある、奇妙なほど白い情景が忽然と現れた。

 伯爵は顔を上げ、もう一度、壁の向こうを見た。残照ははるか彼方、地平線のへりだけにかろうじて残っている。いましがたまで平原の四分の一ほどまで来ていた群衆のあらかたは、逆転した時間のなかでいつのまにか地平線の向こうまで後退し、いまや静止しまったかのようだ。

 アクセル伯爵の手の中の花は、ガラス製の指ぬきほどの大きさに縮んで、消滅しかけている花芯のまわりの花びらもしわがよっていた。花芯部からは火花がきらめき、やがてそれも消えてしまうとアクセル伯爵は、花が手の中で冷たい露の粒になってしまったように感じた。

 夕闇が屋敷の上に垂れこめ、平原に長い影を落とし、地平線は空と溶けあった。ハープシコードの音も消え、時の花の茂みも音に反響することもなくなり、まるで霜で凍りついたかのように、塑像のようにそよぐのもやめてしまった。

 アクセル伯爵は、なおもしばらくの間、茂みを見下ろし、残っている花を数えた。それからテラスを横切ってやってきた伯爵夫人に声をかけた。夫人の錦織のイブニングドレスが飾りタイルをこすって衣擦れの音を立てる。

「なんて美しい夜なんでしょうね、あなた」芝生に落ちた屋敷の美しい影や、暗闇にまたたく空が、あたかも夫から自分に贈られたプレゼントであるかのように、夫人はしみじみと言った。夫人の顔は穏やかで知的、後ろへなでつけた髪は宝石をちりばめた銀の髪留めでまとめている。着ているドレスは胸元が広く開いていて、長く華奢な首筋と高貴なあごを際だたせていた。アクセル伯爵は妻を、愛おしさと誇らしさがないまぜになったまなざしで見やった。それから妻に腕を差し出し、一緒に階段をおりて庭へ入っていった。

「夏の間でもいまが一番日暮れが長い時期だ」伯爵は確かめるようにそう言うと、言葉を継いだ。「完全な花を摘んだよ。まさしく宝石だった。運さえ良ければ数日は保つはずだ」かすかに眉間に皺を寄せて、半ば無意識のうちに石塀に目を向けた。「いまでは見るたびに近くなっている」

 伯爵夫人は夫を力づけるようにほほえむと、回す腕に力をこめた。ふたりとも、時の庭が死につつあるのを知っていた。



 三日後の夕刻、伯爵は自分が考えていたより早く、時の庭からもう一本、花を摘まなくてはならなくなった。

 最初に石塀の向こうを見ると、暴徒の群れは地平線の彼方から平原の半ばまでを、とぎれることなく埋めつくしている。低い、とぎれとぎれの声が、さえぎるもののない空間を渡って聞こえてくるような気がした。怒りのざわめきの合間にさしはさまれるのは、悲鳴と叫び声か。だが、伯爵はすぐさま、幻聴だ、と自分に言いきかせた。

 さいわいなことに、妻の奏でるハープシコードの音が、バッハのフーガの華麗な対位法となってテラスを満たし、ほかの音を覆い隠した。

 屋敷と地平線の間の平原は、四つの巨大な丘によって分割されており、それぞれの頂点が傾く日に照らされていた。アクセル伯爵は、決して花の数など数えまい、と心に誓った。だが、調べたりしなくても、その数があまりに少ないことはわかっている。とりわけ群衆が近づいているときには、なおのことそれが顕著だった。いまや、前線の部隊は最初の頂上を越えて、二番目の丘にさしかかろうとしている。本隊はその背後にふくれあがり、最初の丘をすっぽりとおおい、地平線までの広大な距離を埋め尽くしていた。

 本隊を左から右へと目を転じていくと、限りないほどに広がっている部隊であることが見て取れた。しかも当初、中心の集団だと思っていた部隊は、単なる先発の第一陣に過ぎず、同様の部隊がいくつも平原に到達しようとしていた。本当の中心集団はまだ地平線の向こうで姿も見えず、アクセル伯爵は、もしそれが現れたことなら、この平原が完全におおわれてしまうだろうと思った。

 アクセル伯爵は大型車や装甲車の姿がないかと目を凝らしたが、そこにいるのはあいも変わらずの、秩序とは無縁の人びとの群れだった。軍旗もなければ旗もなく、シンボルも槍や矛などの武器もない。こうべを垂れ、うちひしがれ、空を見上げることもない群衆の姿だった。


(この項つづく)


※つづきは明日、かならず。