その3.
伯爵が振り向く直前、不意に二番目の丘の頂きに出現した先頭の隊列が、平原へと降り始めていた。だが、伯爵を驚かせたのは、視界から外れていた間に、平原をおおう群衆の幅が、信じられないほど広がっていたことだ。人びとの姿は二倍ほども大きくなり、それぞれの顔がはっきりと見て取れる。
アクセル伯爵は急いでテラスの階段を下り、庭から時の花を一本選び、摘み取った。花が内包された光を開放したところで、テラスに戻った。花がしぼみ、手の中で氷の真珠に変わったところで、ふたたび地平線に目を向ける。幸いにも軍隊は、ふたたび地平線まで後退していた。
そのとき伯爵が悟ったのは、地平線そのものが以前より前に出てきていて、これまで地平線だと思っていたものは、最初の頂上にすぎないのだった。
伯爵夫人とともに夕刻の散歩に出た出たとき、伯爵はそのことについては何も言わなかったが、夫人の方は、夫のいつも通りの“我関せず”の表情の裏に隠されたものを見て取って、なんとか夫の不安を追い払おうと努めた。
階段を下りながら、時の庭を指さす。「なんて見事なのかしらね、あなた。まだ花があんなにたくさん」
伯爵はうなずき、妻の自分を安心させようという努力に笑顔で応えた。だが妻が口にした「まだ」という言葉は、やがて来る最期の予感を抱いていることを、無意識のうちに明らかにしていた。実際のところ、庭に何百と咲いていた花も、いまやたった十数本を残すだけなのである。しかもその中のいくつかは、小さなつぼみとさえ呼べないほどのもので、大輪の花を咲かせているのは、わずかに三つか四つだった。
ふたりは湖まで脚を伸ばした。伯爵夫人のドレスが、冷ややかな芝生の上で衣擦れの音を立てる。伯爵は、先に大輪の花を摘み取るべきか、それとも最後のときのために残しておくべきか、決断しようとしていた。厳密に考えれば、小さな花に成長と成熟の時間を与えてやるべきなのだろう。だが、自分が考えているように、大輪の花を後々まで残しておいて、最後に斥けようとするなら、花の成長は諦めなければならない。だが、いずれにせよ、たいしたちがいがないことはわかっていた。ほどなく時の庭が死ぬ日はやってくるのであり、小さな花のまだ固い花芯に、時を蓄積させるためには、それよりはるかに長い時間が必要だった。伯爵が生涯を通じて花の成長を見届けたことはただの一度もなかった。大輪の花はつねに咲き誇っていたし、つぼみがかすかでも成長している気配を見せたこともなかったのである。
湖を渡りながら、伯爵夫妻は暗い水面に映る自分たちの姿を見下ろしていた。一方をあずまや、他方を庭の高い石塀で守られ、遠くには屋敷がある。ここでなら、平原を少しずつ侵蝕してくる群衆の悪夢を見ないですみ、アクセル伯爵も静かで安らかな気持ちでいられた。伯爵は腕を夫人のなめらかな腰に回し、自分の胸に愛おしげに引き寄せた。ここ数年、妻を抱くこともなかった、と伯爵は思った。自分たちの人生がひとつになってからは時間を超越した歳月で、妻をこの屋敷に迎えて共に暮らすようになった日も、あたかも昨日のことのようだ。
「あなた」不意に真剣な面もちになって、妻は言った。「庭が死んでしまう前に……わたしに最後の花を摘ませてくださいますわね」
妻の言わんとするところを悟った伯爵は、ゆっくりとうなずいた。
(この項つづく)