陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

J.G. バラード「時の庭」最終回

2011-04-16 22:53:41 | 翻訳
最終回


 一瞬、喧噪がいくぶんおさまり、アクセル伯爵ははっとわれに返った。花から放たれる鮮やかな光が、妻の青ざめた顔や怯えた目を浮かび上がらせる。
「できるだけしっかり持っていなさい。最後のひとしずくが死に絶えるまで」

 ふたりは寄り添ってテラスに立ち、伯爵夫人は鮮やかな末期の光をきらめかせながら死んでいく宝石をにぎりしてめていた。外の群衆の声がふたたび聞こえ始めると、あたりの空気もふたりを押しつぶさんばかりに緊張の度合いを高めた。暴徒の群れは重い鉄の門を叩き、屋敷全体がその衝撃で揺れた。

 微かな日の名残りもあっという間に弱まって、伯爵夫人はまるで目には見えない鳥を放してやろうとするかのように、てのひらを空にかざした。それから最後の勇気をふりしぼって夫の手の中に自分の両手をあずけ、消えていく花の輝きにも似た笑みを浮かべた。
「あなた……」

 あたかも刃が振り下ろされたかのように、暗闇がふたりの上に落ちた。


 うなり声やののしり声をあげながら、暴徒の集団の外縁に位置する部隊が、崩れ落ちて膝の高さの石塀が残るだけの廃墟となった屋敷に到達した。荷車で塀の残骸を越し、かつては美しく飾られていたのに、いまは干からびたわだちだらけとなった小径を、引いていく。豪勢な屋敷の廃墟は、絶え間なく押し寄せる人波の前に、なすすべもなかった。湖は干上がり、底では倒木が重なって腐り、年を重ねた橋も錆びるにまかせている。芝生は雑草が伸び放題となり、飾り小径も石の仕切りも雑草におおわれていた。

 テラスもあらかたが崩れ落ち、暴徒たちはうちのめされた屋敷など目もくれず芝生を真っ直ぐに進んだが、ひとりかふたり、好奇心の強い者がよじのぼって内部を探索に行った。ドアの蝶番が腐り、床が落ちている。音楽室の年代物のハープシコードは、切り刻まれて薪にされたが、いくつかの鍵盤がほこりにまみれて転がっていた。書斎では、本棚の本は残らず崩れ落ち、カンバスは切り裂かれ、金箔をかぶせた額縁も床に散乱していた。

 主力部隊が屋敷に到着し、石塀のあらゆる場所から乗り越え始めた。大勢の人びとが一時に殺到し、干上がった池を越えてテラスを乗り越え、押し合いへし合いしながら屋敷を抜けて、開いた北側の扉へと向かっていく。

 途絶えることのない人波さえも寄せ付けない場所が、たったひとつだけあった。壊れたバルコニーと塀の間に、二メートルほどの高さまでも生い茂った、深いイバラの茂みだった。トゲだらけの枝が密生しているため、通り抜けることもできず、しかもその枝には有毒のベラドンナがからみついているために、そこは慎重に迂回されていたのだ。群衆のほとんどはひっくり返った敷石のあいだの足場を確かめることに夢中で、イバラの奥をのぞくこともなかった。そこには二体の石像が寄り添うように立ち、イバラに守られ、眺めの良い場所からあたりを見渡していた。丈が高い方は、あごひげを生やした男の像で、立て襟の上着を身にまとい、ステッキを小脇に挟んでいる。その傍らに立つのは女性の像で、凝った仕立ての床まで届く丈のドレスである。女性の穏やかでほっそりしたおもだちは、風雨の痕跡をいささかも残していない。その左手は、一本のバラをそっと握っていた。繊細に彫琢されたその花びらは、透き通るほどにかぎりなく薄かった。

 屋敷の背後の夕陽が、いまや最後の輝きを終えようとしている。崩れかけた軒の隙間から一筋の光が差し込み、バラを照らした。輪を描きながら開く花びらが反射して、その光を石像に投げかける。その刹那、光を浴びた灰色の石像は、肉体を消して久しいそのモデルと見分けがつかなかった。




The End



(※近日中に手を入れてサイトにアップします)