陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

行列の話

2011-04-26 23:33:02 | weblog
昨日、郵便局に振り込みに行ったら、25日ということで、三台あるキャッシュ・ディスペンサーの前には、長蛇の列ができていた。ディスペンサーの機械は、郵便局の入り口脇の壁に沿ってあるのだが、そこから伸びた行列のシッポは、奥まで伸び、そこからさらに折り返している。つまり、さして広くない郵便局のほぼ半分は、行列に並ぶ人で埋め尽くされていたのである。

わたしは例によってカバンから本を出し、読み始めたのだが、並んでいる人は、うなだれて携帯をのぞきこんでいる人をのぞけば、頭を右にずらし、左にずらししながら、行列が少しずつ前進していくのをいらだたしそうに見ている。先頭が進んでも、それに気づかず前に出ない人がいれば、後ろの人は舌打ちし、ディスペンサーの前に立つ人が、ひとつ用事が終わってもそこをどかず、もう一度、いらっしゃいませ、と機械の音が聞こえてきたりすると、これみよがしのため息が聞こえたりする。不機嫌な空気があたりには充満しているのである。

「行列の出来る店」というのが世の中にはあるが、ラーメン屋であろうと、イタリアン・レストランであろうと、そんな店の前で行列を作っている人は、不機嫌そうな顔はしていない。行列の後ろで舌打ちやため息が聞こえてくるのは、郵便局やスーパーや、デパートや映画館のトイレなど、ある用件をすませるためには「並ばない」という選択肢がない場合に限られる。逆に言うと、わざわざ並ばなくても良いのに、何か特別なモノを求めてのモノやサービスを求める場合、行列の一員に加わることは、自分の「意思」なのである。自分から選んだ行為であるから、手に入れるまでの時間は「行列に並んだ」というイベントになる。

ゲームソフトを買うためや、試合やコンサートのに、チケットショップの前で、前の晩から寝袋持参で並ぶ人たちは、なんだか楽しそうだ。隣り合った見知らぬ人とも言葉を交わし、行列を構成している人びとの間に、同じ目的を共有したことから来る一体感すら生まれることがある。

だが、強いられる行列にせよ、自発的行列にせよ、モノやサービスの需要-供給関係に、不均衡が生じているから行列が生じるのだ。閑古鳥の鳴くスーパーであれば、レジで行列を作る必要もない。

さらに、封建制の時代であれば、貴族などは行列に並ぶ必要はないだろう。身分の高い順に、取りたいものを自分のものにしていくからだ。

こう考えていくと、行列が成立するためには、いくつかの条件があって、それを満たしていなければ出現しないものだとわかってくる。

さらに、行列は平等原則によって貫かれている。年齢にも性別にも拠らない、職業も、年収も関係ない。美人であろうがブスであろうが、同じこと。ただひたすら先に着いた者が有利。そう考えていくと、きわめて民主主義的なもの、と言えそうだ。

平等原則至上主義が行列だからこそ、唯一のルールでもある「順番を抜かす」ことが、重大なルール違反となってくるのだ。小学生の低学年の子供でもあるまいし……と思えることもあるのだけれど、実際、スーパーで順番を巡って激しい口論をしている人たちを見たこともある。

震災後、避難先での炊き出しで、行列を作っていた人びとと、モノが消えてしまった都内のスーパーで行列を作っていた人びとの表情は、おそらくずいぶんちがったものだったはずだ。環境がより劣悪な方が、人びとは苛立ったりせず、並んでいられる、というのも、人間の感じ方を考える上で興味深い。

いまでは見なれたものになってしまった行列だが、その成立条件や歴史を考えると、そこまで「ありふれた」ものではないはずだ。一口に「行列」といっても、いつの、どんな「行列」かによって、並ぶ人の心情は驚くほどちがっているのだ。