なんだかトイレ掃除がえらくたいそうな話になっていないか。
「トイレ掃除を“する”か“しない”かで世帯年収に90万円の差!?」というニュースを見たのだが。リンクはじき切れてしまうだろうから、記事の一部分を抜粋しておく。
いやいや、これは因果関係が逆でしょう。年収の高い人が“ピカピカトイレ”のある家に住むことができるというだけの話ではないのだろうか。もともとが“ピカピカトイレ”なら掃除だってしやすいし、そもそも“残念トイレ”(なんだかすごい言い方だな、こりゃ)なら、どれだけ頑張って掃除をしたところで、せいぜいが多少まし、“ピカピカ”には昇格できそうもない。やってもたいして効果が見られなければ、そこまでがんばって“ピカピカ”にしようという気も起こらないにちがいあるまい。
『トイレの神様』という歌があるという話を聞いたとき、ちょっとおかしくなって笑ってしまった。なんでもトイレをきれいにするときれいになれる、という歌詞らしいが、その昔、わたしが聞いた話では「きれいな子供が産まれる」というものだった。どうも御利益のタイムスパンは昔より短くなって、おまけにその人自身に見返りがくるようになったものらしい。
そもそもこの話は、母が女子校にいた時分、先生から聞かされた話である。
「御不浄」(女子校の先生はトイレのことをこう呼んでいたそうだ)をきれいにするような、心のきれいな人には、きれいな子ができる、と。それを聞いて、母たちは勇んで掃除をしたのだそうだ。
「でもねえ、昔のトイレ掃除は、ほんとうに大変だったんだから」
学校の教育方針でもあったのだろうが、モップなど使わず、床も便器も、手で全部雑巾がけをしていたのだそうだ。やはり当時の生徒たちも、トイレ掃除の当番はいやだったらしいが、その先生の言葉を聞いてしまえば、サボるわけにもいくまい。
それからずいぶん月日が流れ、女子高生は母となり、その話を娘に伝えたというわけである。
「だったら良かったじゃん、わたしが生まれて」と言ったら、
「手を抜いたつもりはなかったんだけどねえ。もっと一生懸命掃除をしておけばよかった」とため息をつかれてしまった。
ただ、ひとつ言えるのは、きれいな子ができるにせよ、本人がきれいになるにせよ、この言葉はあくまで子供に向かって言うせりふだということだ。つまり、「やらない」という選択権のある人間に、「見返り」で釣っているわけだ。
一人暮らしであれば、トイレは自分が掃除する以外に選択の余地はない。そうして自分が生活する場全体の中で、いまの時代、トイレが一番厄介な場所ではない。
事実、限られた空間で、構造も単純なトイレは、浴室と比べても、さらには台所などとくらべればはるかに、楽に掃除ができる場所なのである。いくつかの要所さえ押さえておけば、いかにも「やった」という状態になる。換気扇があり、レンジがあり、シンクがあり、排水口があり、棚がいくつもあり、冷蔵庫があり、調理器具があり、食器があり……という台所ではこうはいかない。毎日掃除をしていても、ちっとも「やった」らしくはならないし、ちょっと手を抜けばあっという間に大変なことになる。
逆に考えれば、だからこそトイレ掃除は、子供に任せることができる、ということなのかもしれない。家族の一員としての責任を持たせるために、トイレ掃除というのはちょうど頃合いの「お手伝い」なのだろう。だからこそ、めんどくさがる子供に「きれいな子ができる」もしくは「きれいになれる」と釣るのだろう。
そもそもこんなことを言うようになったのは、いつ頃からだったのだろうか。昔の便所掃除というのは、いまとはちがって、大変だったにちがいない。トイレが水洗になる前の時代というのは、いったいどんなふうに掃除をしていたのだろうか。幸田露伴はどんなふうに教えていたのだろう(幸田文は何か書いていなかったっけ)。そのころであれば、「便所の神様」に喜んでもらうため、という掃除観があったとしても、不思議ではない気がする。
いまのように明るく、ボタンを押せば清潔な水がふんだんに流れるトイレには、あまり神様はいそうにはない。ならばトイレを掃除すれば、きれいなトイレを使うことができるという見返りだけで十分ではあるまいか。
「トイレ掃除を“する”か“しない”かで世帯年収に90万円の差!?」というニュースを見たのだが。リンクはじき切れてしまうだろうから、記事の一部分を抜粋しておく。
ライオンは、今回、20~39歳の男女490人に対して「トイレの清潔さに関する比較調査」を実施。風水などでは、「トイレをキレイにしていると、金運がアップする」などといわれているが、実際に調査対象者を“ピカピカトイレ派(245人)”と“残念トイレ派(245人/トイレをキレイにしていない人のこと)”の2派に分け、「あなたは金運が良い方だと思うか?」と質問。すると、“ピカピカトイレ派”は、42%が「思う」と回答したが、一方で、“残念トイレ派”で「思う」と答えたのは、22%と少数だった。
さらに、年収についても聞いてみると、明らかな違いが発覚!“ピカピカトイレ派”の平均個人年収は261万円、“残念トイレ派”の平均個人年収は237万円となり、24万円の差が出てしまったのだ。そして、「世帯年収」についても聞くと、“ピカピカトイレ派”の平均は542万円、“残念トイレ派”の平均は454万円。なんと、90万円近くの差が出る結果となった。(東京ウォーカー )
いやいや、これは因果関係が逆でしょう。年収の高い人が“ピカピカトイレ”のある家に住むことができるというだけの話ではないのだろうか。もともとが“ピカピカトイレ”なら掃除だってしやすいし、そもそも“残念トイレ”(なんだかすごい言い方だな、こりゃ)なら、どれだけ頑張って掃除をしたところで、せいぜいが多少まし、“ピカピカ”には昇格できそうもない。やってもたいして効果が見られなければ、そこまでがんばって“ピカピカ”にしようという気も起こらないにちがいあるまい。
『トイレの神様』という歌があるという話を聞いたとき、ちょっとおかしくなって笑ってしまった。なんでもトイレをきれいにするときれいになれる、という歌詞らしいが、その昔、わたしが聞いた話では「きれいな子供が産まれる」というものだった。どうも御利益のタイムスパンは昔より短くなって、おまけにその人自身に見返りがくるようになったものらしい。
そもそもこの話は、母が女子校にいた時分、先生から聞かされた話である。
「御不浄」(女子校の先生はトイレのことをこう呼んでいたそうだ)をきれいにするような、心のきれいな人には、きれいな子ができる、と。それを聞いて、母たちは勇んで掃除をしたのだそうだ。
「でもねえ、昔のトイレ掃除は、ほんとうに大変だったんだから」
学校の教育方針でもあったのだろうが、モップなど使わず、床も便器も、手で全部雑巾がけをしていたのだそうだ。やはり当時の生徒たちも、トイレ掃除の当番はいやだったらしいが、その先生の言葉を聞いてしまえば、サボるわけにもいくまい。
それからずいぶん月日が流れ、女子高生は母となり、その話を娘に伝えたというわけである。
「だったら良かったじゃん、わたしが生まれて」と言ったら、
「手を抜いたつもりはなかったんだけどねえ。もっと一生懸命掃除をしておけばよかった」とため息をつかれてしまった。
ただ、ひとつ言えるのは、きれいな子ができるにせよ、本人がきれいになるにせよ、この言葉はあくまで子供に向かって言うせりふだということだ。つまり、「やらない」という選択権のある人間に、「見返り」で釣っているわけだ。
一人暮らしであれば、トイレは自分が掃除する以外に選択の余地はない。そうして自分が生活する場全体の中で、いまの時代、トイレが一番厄介な場所ではない。
事実、限られた空間で、構造も単純なトイレは、浴室と比べても、さらには台所などとくらべればはるかに、楽に掃除ができる場所なのである。いくつかの要所さえ押さえておけば、いかにも「やった」という状態になる。換気扇があり、レンジがあり、シンクがあり、排水口があり、棚がいくつもあり、冷蔵庫があり、調理器具があり、食器があり……という台所ではこうはいかない。毎日掃除をしていても、ちっとも「やった」らしくはならないし、ちょっと手を抜けばあっという間に大変なことになる。
逆に考えれば、だからこそトイレ掃除は、子供に任せることができる、ということなのかもしれない。家族の一員としての責任を持たせるために、トイレ掃除というのはちょうど頃合いの「お手伝い」なのだろう。だからこそ、めんどくさがる子供に「きれいな子ができる」もしくは「きれいになれる」と釣るのだろう。
そもそもこんなことを言うようになったのは、いつ頃からだったのだろうか。昔の便所掃除というのは、いまとはちがって、大変だったにちがいない。トイレが水洗になる前の時代というのは、いったいどんなふうに掃除をしていたのだろうか。幸田露伴はどんなふうに教えていたのだろう(幸田文は何か書いていなかったっけ)。そのころであれば、「便所の神様」に喜んでもらうため、という掃除観があったとしても、不思議ではない気がする。
いまのように明るく、ボタンを押せば清潔な水がふんだんに流れるトイレには、あまり神様はいそうにはない。ならばトイレを掃除すれば、きれいなトイレを使うことができるという見返りだけで十分ではあるまいか。