その7.
つぎの手品は、何枚もの大きな木の札にリボンを通す手品だった。孫に、リボンのたばを持っていてくれないか、と頼んだ。ここではリボンが寸分のたるみもなく、張っていることが大切なのだ。ミセス・ヘイスティングスには、夫がリボンを通さなくてはならない穴を見つけるのに手こずっているのがわかった。穴をひとつ抜かした。おかげでリボンを一本引っぱっても何も起こらなかった。札が微動だにしないまま、リボンだけさっと抜けるはずだったのに。だが、リボンを全部引っぱっても一本も動かない。夫は観客の方を向いた。その仕草は、ひどく年寄り臭かった。「紳士淑女の皆様方、まことに申し訳ございません」と言ったのだった。
そこで客席から声援があがったのである。夫は拍手喝采に包まれた。ミセス・ヘイスティングスはどれだけ連中を憎んだことだろう。観客たちはとまどいながらもある種の共犯意識を抱いているらしい。客席の一体感というのは、多くの場合、観客が自分から遠い、はるかに離れた舞台に立つ人間を愛したり、逆に憎んだりすることから生まれるものだが、いまの観客を結ぶ一体感の正体は、愛でもなければ憎しみでもなかった。ひとりの老人がそこにいることにいたたまれない思いを抱き、早く終わってしまえばいいのに、と切に願っている。その気持ちを隠そうと、やたら拍手喝采していることが、ミセス・ヘイスティングスにはありありと見て取れた。彼女はじっとすわったまま、微動だにしなかった。
せめてつぎの手品がうまくいってくれさえしたら! だが、スカーフの手品は、居間で披露したときからうまくいってなかったのだ。ミセス・ヘイスティングスは息が留まりそうだった。吐き気がする。あのとき、うまくいかなかったわよ、と言えばよかったのだ。勇気がなかったんだわ。いまあのひとは大勢の赤の他人の前で、バカにされようとしている。フレデリックの同僚の前で。
「紳士淑女の皆様方、ここにありますのは魔法の箱、魔法の洗濯箱であります。家内にはいつもこれを使えと申しておりますが、うちのやつときたらどうにも頑固ものでして」
ミセス・ヘイスティングスはこれからどうなるかがわかっていた。箱の一方から色のついたスカーフを入れ、反対側から白いスカーフを引き出す。だが、居間で夫が引き出したのは、自分が入れたのと同じ色のスカーフだった。それを指摘することは彼女にはできなかった。しかも、夫はちがっていることに気がつかなかったのである。
目の前で、夫はおなじことをやった。だが、少なくともあっという間に終わった。色のついたスカーフを、自分では白だと思っているスカーフを高く掲げ、頭の上でひらひらとはためかせ、観客に向かって深々とお辞儀した。
失敗したことに気がついていない。観客たちは困惑していた。恐ろしい沈黙が落ち、やがて何が起こったか、観客にも飲み込めてきた。すぐにフレデリックが拍手し始めた。観客たちもミスター・ヘイスティングスにスタンディングオベーションを送った。夫は奇妙なほど年寄りじみた、彼女がこれまで見たこともない足取りで、舞台裏に引っ込んでいった。
フレデリックがふたたび舞台に上がった。軽食がどうとか、軽食の用意をしてくれたご婦人方に感謝するだとかと言っている。ミセス・ヘイスティングスは椅子に坐ったまま、怒りに身を震わせていた。
よくもまあ、あんなふうにいけしゃあしゃあとしていられるものだわ。自分の父親が恥をかかされたというのに。それも全部、おまえのせいなのよ。一体、どのつらさげて観客の前に立ってるの。ゲームがどうとか、賞品がどうとかって、あのひとたちはみんな、あなたのお父さんが老醜をさらすのを目の当たりにしたのよ。どうしてお父さんのところへ行って、力づけてあげるとか、どこかよそへ連れて行ってあげるとか、しようとは思わないの? あなたが悪いのよ、フレデリック。あなたが鈍いんだか、ひょっとしたら父親に対する悪意があったのかどうかは知らないけれど、お父さんがみんなの見ている前で、失敗してしまったのよ?
「食事が取れる場所に連れてってあげるよ」フレデリックが母親に腕を差し出しながらそう言った。母親に向かって言葉をかけているあいだも、ほかの人に会釈するのに忙しい。
ミセス・ヘイスティングスは激しい剣幕で息子の方に向き直った。
「どうしてこんなことをお父さんにさせたの?」
「何をさせたんだって?」
「あの手品よ。あんなひどい目に遭わせたことよ」
「お父さんは乗りに乗ってたじゃないか。すごく楽しんでたよ」
「みんなに失敗を見られてしまったのよ」ミセス・ヘイスティングスは食いしばった歯の間から言葉を押し出すようにそう言った。
「それもいいじゃないか、お母さん。お父さんはうまくいったと思ってるんだから」
「ひどい屈辱じゃないの」
フレデリックはやれやれ、と頭を振りながら、さほど興味もなさそうな目つきで母親に目をやった。それから先に立って歩きだした。だがその歩調は、彼女には少し速すぎる。あの子ったら、誰か話ができる相手を探しているんだわ。肩越しにふり返ったフレデリックの顔つきには、何かにじれている若い娘さながらの表情が浮かんでいた。
「ひと皿取ってきてあげようか?」と彼は聞いた。
「自分のお父さんに対してあんなひどいことをするような子に、何もしてもらいたくありません」
彼は足を止めて母親が追いつくのを待った。
「お母さん、お父さんって人はね、あなたの倍ほども人間が上だよ」彼は母親の方を見ないでそう言った。「いや、三倍かな」
ミセス・ヘイスティングスは息子に寄り添った。見上げるまなざしには、息子が生まれて初めての、愛情と呼んでさしつかえのない感情がこもっていた。生まれて初めて、息子との血のつながりに誇らしさを感じた。ミセス・ヘイスティングスは息子の腕に手をかけた。
(※後日手を入れてサイトにアップします)
つぎの手品は、何枚もの大きな木の札にリボンを通す手品だった。孫に、リボンのたばを持っていてくれないか、と頼んだ。ここではリボンが寸分のたるみもなく、張っていることが大切なのだ。ミセス・ヘイスティングスには、夫がリボンを通さなくてはならない穴を見つけるのに手こずっているのがわかった。穴をひとつ抜かした。おかげでリボンを一本引っぱっても何も起こらなかった。札が微動だにしないまま、リボンだけさっと抜けるはずだったのに。だが、リボンを全部引っぱっても一本も動かない。夫は観客の方を向いた。その仕草は、ひどく年寄り臭かった。「紳士淑女の皆様方、まことに申し訳ございません」と言ったのだった。
そこで客席から声援があがったのである。夫は拍手喝采に包まれた。ミセス・ヘイスティングスはどれだけ連中を憎んだことだろう。観客たちはとまどいながらもある種の共犯意識を抱いているらしい。客席の一体感というのは、多くの場合、観客が自分から遠い、はるかに離れた舞台に立つ人間を愛したり、逆に憎んだりすることから生まれるものだが、いまの観客を結ぶ一体感の正体は、愛でもなければ憎しみでもなかった。ひとりの老人がそこにいることにいたたまれない思いを抱き、早く終わってしまえばいいのに、と切に願っている。その気持ちを隠そうと、やたら拍手喝采していることが、ミセス・ヘイスティングスにはありありと見て取れた。彼女はじっとすわったまま、微動だにしなかった。
せめてつぎの手品がうまくいってくれさえしたら! だが、スカーフの手品は、居間で披露したときからうまくいってなかったのだ。ミセス・ヘイスティングスは息が留まりそうだった。吐き気がする。あのとき、うまくいかなかったわよ、と言えばよかったのだ。勇気がなかったんだわ。いまあのひとは大勢の赤の他人の前で、バカにされようとしている。フレデリックの同僚の前で。
「紳士淑女の皆様方、ここにありますのは魔法の箱、魔法の洗濯箱であります。家内にはいつもこれを使えと申しておりますが、うちのやつときたらどうにも頑固ものでして」
ミセス・ヘイスティングスはこれからどうなるかがわかっていた。箱の一方から色のついたスカーフを入れ、反対側から白いスカーフを引き出す。だが、居間で夫が引き出したのは、自分が入れたのと同じ色のスカーフだった。それを指摘することは彼女にはできなかった。しかも、夫はちがっていることに気がつかなかったのである。
目の前で、夫はおなじことをやった。だが、少なくともあっという間に終わった。色のついたスカーフを、自分では白だと思っているスカーフを高く掲げ、頭の上でひらひらとはためかせ、観客に向かって深々とお辞儀した。
失敗したことに気がついていない。観客たちは困惑していた。恐ろしい沈黙が落ち、やがて何が起こったか、観客にも飲み込めてきた。すぐにフレデリックが拍手し始めた。観客たちもミスター・ヘイスティングスにスタンディングオベーションを送った。夫は奇妙なほど年寄りじみた、彼女がこれまで見たこともない足取りで、舞台裏に引っ込んでいった。
フレデリックがふたたび舞台に上がった。軽食がどうとか、軽食の用意をしてくれたご婦人方に感謝するだとかと言っている。ミセス・ヘイスティングスは椅子に坐ったまま、怒りに身を震わせていた。
よくもまあ、あんなふうにいけしゃあしゃあとしていられるものだわ。自分の父親が恥をかかされたというのに。それも全部、おまえのせいなのよ。一体、どのつらさげて観客の前に立ってるの。ゲームがどうとか、賞品がどうとかって、あのひとたちはみんな、あなたのお父さんが老醜をさらすのを目の当たりにしたのよ。どうしてお父さんのところへ行って、力づけてあげるとか、どこかよそへ連れて行ってあげるとか、しようとは思わないの? あなたが悪いのよ、フレデリック。あなたが鈍いんだか、ひょっとしたら父親に対する悪意があったのかどうかは知らないけれど、お父さんがみんなの見ている前で、失敗してしまったのよ?
「食事が取れる場所に連れてってあげるよ」フレデリックが母親に腕を差し出しながらそう言った。母親に向かって言葉をかけているあいだも、ほかの人に会釈するのに忙しい。
ミセス・ヘイスティングスは激しい剣幕で息子の方に向き直った。
「どうしてこんなことをお父さんにさせたの?」
「何をさせたんだって?」
「あの手品よ。あんなひどい目に遭わせたことよ」
「お父さんは乗りに乗ってたじゃないか。すごく楽しんでたよ」
「みんなに失敗を見られてしまったのよ」ミセス・ヘイスティングスは食いしばった歯の間から言葉を押し出すようにそう言った。
「それもいいじゃないか、お母さん。お父さんはうまくいったと思ってるんだから」
「ひどい屈辱じゃないの」
フレデリックはやれやれ、と頭を振りながら、さほど興味もなさそうな目つきで母親に目をやった。それから先に立って歩きだした。だがその歩調は、彼女には少し速すぎる。あの子ったら、誰か話ができる相手を探しているんだわ。肩越しにふり返ったフレデリックの顔つきには、何かにじれている若い娘さながらの表情が浮かんでいた。
「ひと皿取ってきてあげようか?」と彼は聞いた。
「自分のお父さんに対してあんなひどいことをするような子に、何もしてもらいたくありません」
彼は足を止めて母親が追いつくのを待った。
「お母さん、お父さんって人はね、あなたの倍ほども人間が上だよ」彼は母親の方を見ないでそう言った。「いや、三倍かな」
ミセス・ヘイスティングスは息子に寄り添った。見上げるまなざしには、息子が生まれて初めての、愛情と呼んでさしつかえのない感情がこもっていた。生まれて初めて、息子との血のつながりに誇らしさを感じた。ミセス・ヘイスティングスは息子の腕に手をかけた。
The End
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