陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

人間不信を口にする人

2011-02-19 23:11:04 | weblog

「自分は人間不信だ」という言葉を聞くたびに、なんとなくおかしくなってくる。

そもそも本当に人間不信なのであれば、そんなことを人に言えるわけがない。人間不信の人にとって、自分が相対している人物は、自分の言葉をどう受けとるかわからない、さらに、自分の言葉を悪意あるかたちで周囲に触れ回らないとも限らない。そんな、なんともわけのわからない存在であるはずだ。

自分の目の前にいる人間は、自分の話を、自分が意図する通りに受けとめてくれるはずがない。そう考えるのが「人間不信」の人の「正しい」発想であって、そんな「人間不信」者が、信じられない相手に向かって、正直な胸の内を言えるはずがないのである。

「人間不信」と誰かに向かって言えるのは、少なくとも相手が自分の話に耳を傾けてくれる、理解してくれる、と信頼しているからだ。たとえ信頼できない人が大勢いようと、ひとり信頼できる人間がいれば、「人間不信」とは言えないだろう。

さらに、相手が自分を承認してくれていると思えるからこそ、「人間不信」などというひそかな思いを告白することができるのだ。そんな相手に向かって、相手も含まれている「人間」を信じられない、などというのは、ずいぶん失礼な話である。

だから、ほんとうの「人間不信」の人は、終始にこやかで、人とのつきあいもつつがなくおこない、周囲に対しても責任を果たしていく、つまり誰にもその内心をうかがわせることもない人物なのである。

もちろん、匿名のブログであっても、「人間不信」という自分の本心など、毛ほども気取られるようなまねはしない。たとえ姿が見えなくても、ネットのうえで自分の書いたものを読む人間を、いったいどうして信頼できよう。

日記だってつけたりしない。木のうろなら人間ではないから信頼できるかもしれないから、そこに向かって「人間不信」の思いのたけをのべるかもしれないが、その近くに誰がいないともかぎらない。だから、外に出すこともいっさいしない。

さらに、「人間不信」の人間に自分だって含まれるのだから、自分の「人間不信」という感じ方がどこまで確かなものなのか、信じることもできない。自分はほんとうに「人間不信」なんだろうか。それさえも、疑わざるをえない。

となると、その人は、「人間不信」とはまったく無縁の生活を送りながら、自分の「人間不信」という思いさえ疑いながら、日々を過ごす、ということになる。そんな生き方が、はたして人間にできるのだろうか。

こんなふうに考えると、ほんとうの意味での「人間不信」というのは、人間には不可能だということになりはすまいか。

現実には「わたし、人間不信なの」と口にする人の念頭にある「人間」には、多くの例外があるのだろう。
まず第一に「人間不信」を口にしている自分の感じ方は信じられる。
さらに、自分の話を聞いてくれる相手も信じられる。きっと相手は自分の意図を正しく汲みとり、それを広めたりはしない人だろうと思っている。
三番目に、自分は人を信頼しない、と言っているのに、他人の方は自分を信頼して、家族やクラスや職場などに受け入れてくれることを当然と思っている。

つまり、まとめて言ってしまうと、「人間不信」を口にする人は、あまり深くものごとを考えずに口に出してしまう人、ということになりそうだ。

おそらくこういう人は、どこかで人間を一点の曇りもなく信じたい、という願望があるのだろう。信じたいのに、信じることができないから、「人間不信だ」などということを口走ってしまうのだろう。

だが、自分自身はまちがいなく信ずるに足る人間なのだろうか。いついかなるときも信じられる人間なのだろうか。

それを考えると、結局、信じるのもほどほど、信じないのもほどほど、としておいた方がよさそうだ。

三島由紀夫は『不道徳教育講座』の「告白するなかれ」の章で、こんなことをいっている。
 どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。

 というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。どんな無邪気な美しい少女でも、その中にひそんでいる人間の真実の相を見たら、愛することなんかできなくなる。仏教の修行で、人間の屍体の腐れ落ちてゆく経過をじっと眺めさせて、無常の相をさとらせるというのは、この原理に則っています。

 ここにおそらく、人生と小説との大きなちがいがあります。ドストエフスキーの小説などを読むと、そこに仮借なく展開されている人間の真実の姿の恐ろしさに目を見はりながら、やはりその登場人物を愛さずにはいられなくなるのは、あくまで小説中の人物であり、つまり「読者自身」だからです。

 しかし現実生活では、彼は彼、私は私であって、彼がどんなに巧みな告白をしても、私が彼になり切ることはできません。ですから、むやみやたらにそんな告白をする人間は、小説と人生とをごっちゃにしているのです。
(三島由紀夫『不道徳教育講座』)

わたしたちはそんなふうに、見せたいように自分を少しだけ飾りながら、他人は自分の見たいように見ながら、互いに「ほんとう」のところとは少しちがうところで、折り折りに、信じたり、信じなかったりしながらつきあっているのだろう。