陰陽師的日常

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映画『ソーシャルネットワーク』の話

2011-02-22 22:47:54 | weblog
映画『ソーシャルネットワーク』を観た。
なにしろ監督のデイヴィッド・フィンチャーはマドンナのMTVを撮っていたころから好きだったし、脚本家は『ザ・ホワイトハウス』のアーロン・ソーキンだし、これは見に行かなくちゃ、と思っていたのだが、どうにも忙しくて、やっとのことで行くことができた。

で、今日はその話。
ネタバレはしないと思うけど、見に行こうと思っている人は、読まない方がいいかも。

前評判だの映画評だのを見ながら、この映画はきっと“フェイスブック”の設立者であるマーク・ザッカーバーグに対する批判的なトーンの映画なんだろうと思っていた。ところが実際は「天才映画」、『アマデウス』や『ビューティフル・マインド』や『シャイン』や『レインマン』や『リトルマン・テイト』の系列に属する映画だった。

映画には、天才映画というカテゴリーがある、というか、わたしはそういう分類項目を作っている。せんじつめれば、桁外れの能力を持っている人が、その能力をいかんなく発揮する、というだけの話なのだが、なぜこれがドラマになるのだろう?

ずばぬけた才能を持つ主人公は、極端なまでの集中力で、自分のやりたいことに没頭している。ところがこうした社会性に欠ける人間は、周囲から見れば、優秀というより、妙なやつ、変なやつである。

そこに主人公のほんとうの実力を評価してくれる人物が現れる。彼は主人公に対しては活躍の場を与え、世間に向けては彼の天才ぶりを解説してくれる役割を果たす。『アマデウス』であればサリエリがこれに当たる。つまり、彼は天才と世間の「媒介者」なのである。

天才を見出すくらいだから、媒介者自身も能力は高いのだ。ただ、その能力は、天才が創造した新しいものを、ほかの人にわかりやすく解説するところまでである。天才のおかげで媒介者はつねに自分の限界をつきつけられて、嫉妬と羨望に苦しみ、反面、社会性ゼロの主人公に対する優越感を覚える、という複雑な感情を抱くことになる。

周囲を無視して、自分のやりたいことをひたすら追い求める主人公、嫉妬と羨望と優越感という相反する感情に翻弄される媒介者、そうして主人公をバカにしたり、手のひらを返すように持ち上げたりする世間、この三つの要素がドラマとなっていく。

だから、映画の中で描かれる事件としては、この手の映画は

 主人公があることを思いつく
  ↓
 媒介者がそれを助ける
  ↓
 主人公は偉大な事業に着手する
  ↓
 羨望と嫉妬に憑かれた媒介者が陰謀をめぐらす
  ↓
 出来事は頓挫しかかる
  ↓
 主人公は何らかの成長をとげることによって事業を成し遂げる

という展開になり、わたしたちはその出来事が無事成功するかどうかを固唾を飲んで見守ることになる。

もちろん天才である主人公に注目することもできる。

 主人公は周囲に認められずに苦悩している
  ↓
 媒介者に見出される
  ↓
 媒介者の裏切りによって、主人公は窮地に立たされる
  ↓
 みずからの才能をいかんなく発揮して、媒介者の裏切りをうち破る
  ↓
 苦労を経て、主人公は人間的にも成熟する、という展開になっていくのである。

この『ソーシャルネットワーク』では、プログラミングの「天才」のマーク・ザッカーバーグと、「媒介者」エドゥアルド・サベリンやショーン・パーカー、ウィンクルボス兄弟との対立が軸となり、過去を回想すいるかたちで話が進んでいく。

主人公が「フェイスブック」を立ち上げるまでには、いくつかのプロセスがあった。最初に彼のプログラミングの能力に目をつけたのは、名門出身、大金持ちの息子で、ハーヴァードの最高級フラタニティクラブのメンバーでもあるウィンクルボス兄弟である。彼らは自分たちの輝かしいバックグラウンドをエサに、ハーヴァードの女の子たちをナンパしようと、ネット上でハーヴァード限定の排他的なコミュニティを立ち上げることを思いつき、主人公であるマーク・ザッカーバーグにそのプログラミングを依頼する。

ところがザッカーバーグはその依頼の「排他的コミュニティでのナンパ」というところだけをいただき、独自に「ザ・フェイスブック」というサイトを立ち上げてしまう。顔写真を載せているから「フェイスブック」、目玉は、趣味や興味のあることに並んで「サイトへの参加目的(友だちづくりなど)」「恋人の有無」の項目である。単にネットワークに参加して、同じ大学の学生と知り合えるだけでなく、一番肝心の、でも対面ではなかなか聞き出せない「恋人の有無」が一目瞭然になっているのだ。

主人公のただひとりの友だちエドゥアルド・サベリンは、自分のコネクションを使って、「フェイスブック」を広める手助けをする。さらに、金銭面でもサポートする。かくして、「フェイスブック」は瞬く間にハーヴァードを席巻し、さらには他大学へも伝播していく。

おさまらないのはウィンクルボス兄弟である。彼らは自分たちのアイデアが盗用されたと思い、結局、主人公を訴えることになる。

一方「フェイスブック」は西海岸の大学にも広まって、そこでショーン・パーカーの目に留まることになる。ショーン・パーカーは、ナップスターの創設者。ナップスターで名前は売れたけれど、訴訟で負け、一文無しになって、女の子のあいだを転々としているような生活を送っている。その彼が「フェイスブック」の将来性を見抜き、主人公に会いに来る。

主人公は「フェイスブック」の世界展開を描いていくショーン・パーカーに夢中になり、彼のコネクションを使って、「フェイスブック」を大規模にしていく。その過程で、いつのまにか共同で運営してきたサベリンを切り捨てていくことになる。裏切られたと感じたサベリンもまた、主人公に対して訴訟を起こすことになる。
このふたつの訴訟の場面を起点として、過去が回想されているのだ。

「媒介者」の性格がそれぞれ異なり、それに応じて主人公との関係も異なり、同時に主人公に対する思いも異なっている。それが物語を複雑にし、彼らが鏡となって、無表情な主人公の、複雑な内面が浮かび上がる仕組みになっています。たたみかけるような早口のせりふが緊張感を高め、まるでテニスのラリーを見ているようでおもしろい。

ただ、脚本のアーロン・ソーキンは、この映画を「天才映画」として書いていて、主人公が挫折を経て、彼独自のやり方で人間的なふれあいを求めようとする場面で終わっているのだが、フィンチャーの方向性は少しちがっているような気がした。

なんというか、主人公の存在を、希薄に希薄に撮ってるような気がするのだ。役を演じている男の子も個性の薄い、どんな顔をしていたか、すぐには思い出せないような役者だ。フィンチャーはマーク・ザッカーバーグを「天才」とは思っていない。といっても「凡人」と思っているわけでもなく、もっと無個性な存在、顔のない存在として撮ろうとしている。

つまり、インターネットの世界というのは、関係だけがあって、実体があるわけではない。もちろんそこから一歩外へ出たら、肉体を備えた人間がやりとりしているわけなのだが、「フェイスブック」の中に限れば、写真もあって、名前も趣味も経歴もあるにせよ、どこまでいっても単に液晶の画面でしかない。フィンチャーは「マーク・ザッカーバーグ」という人物を、あたかも液晶に浮かび上がる虚像として撮ろうとしているのではないか。

脚本と映像の方向性がちがっている。でも、そこが独特の緊張感を生んでいるのだろう。

見終わって、「なんだ、これは「天才映画」だったじゃないか」とわたしは思ったのだけれど、同時に「天才映画」もまだ作ることができるんだなあ、とも思った。モーツアルトだのなんだの、昔の偉人を扱う以外に、「天才映画」なんて作れっこないんじゃないか、と思っていたのだ。

天才というのは、システムの外にいる。システムの中にいて、システムを運用する人間は、有能であっても、天才ではないからだ。いまはあらゆる分野でシステムがすっかりできあがってしまっていて、能力というのは、それをいかに巧みに運用するか、システムとシステムを組み合わせて、そこから新しい運用の仕方を見出すか、の方向に傾けられている。だから、同時代を舞台に、そんな映画なんてできないんじゃないか、と。

ところが未開拓の分野がまだあったわけだ。
でも、「フェイスブック」の開発というのは、そこまで新しいことなんだろうか?