陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」その9.

2009-12-09 23:07:34 | 翻訳
その9.

ぼくの友だちはわざと台所の床にやかんを落とす。ぼくは閉まったままのドアの前でタップダンスを踊る。家の人たちが、ひとり、またひとりと起きてきて、ぼくたちを殺してやりたい、という目でにらみつける。だが、クリスマスにそんなことができるはずがない。

まずは豪華な朝食だ。朝食という言葉で想像しうるものすべてがそろっている。パンケーキから、リスのフライ、ひき割りトウモロコシに巣に入ったままの蜂蜜まで。そのおかげでみんながご機嫌になるが、ぼくの友だちとぼくはそうではない。ほんとうのところ、ぼくたちはプレゼントのところへ行きたくてたまらず、一口だって食べられそうにないのだ。

 でも、ぼくはがっかりする。がっかりしない人がいるだろうか。靴下、日曜学校に着ていくシャツ、ハンカチが数枚、おさがりのセーター、子供向け宗教雑誌「小さき羊飼い」の一年分。見ているうちにむかっ腹がたってくる。まったく言葉通りに。

 友だちの手に入れたものの方が、まだましだ。温州みかんひとふくろが、もらった中では一番よさげなプレゼントだが、彼女は嫁いでいる妹から贈られてきた手編みの白いウールのショールに鼻高々だ。でも、なんたってあたしがもらった中で一番のお気に入りは、おまえが作ってくれた凧だよ、と彼女は言う。だってとってもきれいじゃないか。だが、彼女がぼくに作ってくれた凧は、さらに美しい。青で、善い行いをしたご褒美の金と緑の星がちりばめられている。なによりすてきなのは、ぼくの名前が書き込んであることだ。「相棒」と。

「相棒、風が吹いてるよ」

 風が吹いているとなると、何をおいても家から下ったところにある牧草地へ走って行かなければならない。そこへはクィーニーが先に来ていて、もらった骨を埋めている(そうしてつぎの冬には、クィーニー自身がそこに埋められることになる)。威勢よく生い茂って腰まで伸びた草のあいだを突き進みながら、ぼくたちは凧の糸を解いてゆく。空を泳ぐ魚がかかったかのように、糸がぴくぴくと引くのを感じる。満ち足り、日の光に暖められて、ぼくたちは草の上に寝っ転がって、みかんの皮をむき、ぼくたちの凧が遊び、たわむれるのを眺める。じきにぼくは靴下も、お下がりのセーターのことも忘れてしまう。幸せだ。もう、コーヒーの名づけコンテストでグランプリを射止め、五万ドルを手に入れてしまったみたいに。

「まあ、あたしはどれほどバカだったんだろうね」ぼくの友だちが、急に驚いたように、ちょうど女の人がオーブンのなかにビスケットを入れていたのを、ずいぶん時間が過ぎてから思い出した女の人のように叫んだ。「あたしがこれまでずっとどんなふうに思ってきたかわかるかい?」何かを見つけたような調子でぼくに聞いてきた顔は、ぼくに向かってほほえみかけているのではなく、ぼくの向こうの何か一点に目をやっている。「あたしはね、これまでずっと、主にお会いしようと思ったら、人間は病気になって死ななくちゃならないものだとばかり思ってたんだよ。そして、主がお姿を現わしたら、バプティスト教会の窓を見ているような感じなんだろうって。色の付いたガラスに、日の光が差しこんでくるみたいにきれいで、あんまりまぶしくって、暗くなってるのにも気がつかない、みたいな。そう考えると、安心できた。その光のおかげで、おっかない気持はどこかへうっちゃられてしまう、って。だけど、そんなことは起こらない、って賭けてもいい。最後の最後に人は悟るんだ。主はずっとお姿をお現しになっておられたんだ、ってね、まちがいないよ。ものごとはすべてあるがままの姿をしているんだって」――彼女の手が、雲も凧も草も、骨を埋めた地面を前脚でかいているクィーニーもひっくるめて、大きな円を描く――「人がずっと目にしてきたものは、どれもみな、主のお姿だったんだよ。今日という日をこの目に収めて、あたしはこのまま死んでもいいよ」

(明日いよいよ最終回)