その2.
帽子が見つかる。つばの広い麦わら帽子で、飾りのベルベットのバラは、日に焼けてすっかり色があせている。前はもっと羽振りのいい親戚の持ち物だった。ぼくたちは一緒にぼくらだけの荷車、というか、壊れた乳母車を引いて、庭を抜けてペカンの果樹園へ入っていく。その乳母車はぼくのものだ。つまり、ぼくが生まれたときに買ったものなのだ。小枝を編んで作ったところは、ほつれかけていて、車輪は酔っぱらいの千鳥足みたいにおぼつかない。だが、こいつはしっかりと役に立ってくれるのだ。春になればぼくたちは荷車を引いて森へ行き、花や香草や野生のシダをどっさり採って、ぼくらの使う玄関の植木鉢に植えてやる。夏にはピクニックの道具や砂糖キビの茎でこしらえた釣り竿を積んで、小川の岸辺に行く。冬には冬の役目がある。手押し車として、庭のたきぎを台所まで運んだり、クィーニーの暖かな寝床にもなるのだ。クィーニーはぼくたちが飼っているオレンジのぶちのある白いラットテリアだ。小さくて強いこいつは、ジステンパーにかかったこともあるし、ガラガラヘビには二度もかまれたのに、生き延びたのだ。そのクィーニーが、いまは荷車の横を早足で駆けていく。
三時間後、ぼくたちは台所に戻っていて、荷車にどっさり積んだ、風落ちのペカンの実の皮をむいている。ペカン拾いのせいで背中が痛い。落ち葉の下や、霜の降りた草の陰に隠れている実をそれだけ探すのに、どれだけ苦労したことか(ほとんどの実は枝からふるい落とされて、果樹園のもちぬしが売ってしまったあとだった。もちろんもちぬしというのは、ぼくらのことではない)。カリッッ! ミニチュアサイズの雷がとどろいたような、小気味のいい音を立てて殻が割れ、甘くて脂分の多い象牙色の果肉が、金色の山となって、乳白色のガラスの器に積み上がっていく。クィーニーが、口に入れてくれ、とせがむので、ときどきぼくの友だちがかけらをこっそりと食わせてやる。だが、ぼくたちは自分の口には絶対に入れない。「あたしたちが食べちゃいけないんだよ、相棒。ひとたび食べ始めちゃったら、もう止まらなくなっちゃうからね。だいたいこれだけあっても、足りるか足りないかってとこなんだ。なにしろフルーツケーキ三十本なんだもの」台所は少しずつ暗くなっていく。宵闇が窓ガラスを鏡に変える。窓に映ったぼくらの姿、暖炉の火に照らされた、暖炉の火に照らされて手仕事を続けるぼくらの姿の中に、昇ってきた月が仲間入りする。ついに、月が天高くなったころ、ぼくたちは最後の殻を火に放り込み、一緒にため息をついて、火に包まれた殻を眺める。荷車は空っぽ、ボウルは山盛りだ。
ぼくらは晩ご飯(冷えたビスケット、ベーコン、ブラックベリーのジャム)を食べながら、明日のことを話し合う。明日にはぼくの一番好きな仕事が始まるのだ。買い出しだ。さくらんぼにシトロン、ショウガやヴァニラ、ハワイ産のパインアップル、オレンジの皮や干しぶどう、くるみにウィスキー、そうそう、小麦粉もバターも卵もスパイスも香味料も山ほど。おやおや、家まで荷車を引くのに、ポニーが必要かもしれない。
とはいえこうした物が買えるかどうか、お金の問題がある。ぼくたちのどちらも、少しも手持ちがなかった。ごくたまに、家の誰かが雀の涙ほどのお小遣いをくれたり(十セント硬貨一枚でも大盤振る舞いだった)、ぼくたちがいろんなことをやって稼いだだけだ。がらくた市を開いたり、摘んだブラックベリーを手桶に入れたのや、ジャムやアップル・ゼリーや桃の砂糖漬けを作って瓶に詰めたのを売ったり、お葬式や結婚式のために花をどっさり摘んだり。以前、ぼくたちは全米フットボールコンテストで七十九位になって、五ドルを手に入れた。フットボールのことなんてちっとも知らなかったのだが。懸賞があると聞けば、何だって参加した。ちょうどいま、ぼくたちが望みを託しているのは、グランプリ五万ドルのコンテストで、新発売のコーヒーに名前をつけるというものだ(ぼくらは「A.M.」という名前を出したのだった。ぼくの友だちの方が、神様を冒涜するものではないかと思ったので、ぼくらはしばらく迷ったのだが、キャッチフレーズを「A.M.! エイメン!」とした)。正直に言うと、ほんとうに利益が上がった事業というのは、二年前の夏、ぼくたちが裏庭のたきぎ小屋で開催した「楽しくて不思議な博物館」だけだった。「楽しい」というのは、ワシントンとニューヨークの写真をスライドにして、幻灯機で映し出すというものだった。写真はそこに行った親戚が貸してくれたのだ(のだが、あとでぼくたちがどうして幻灯機を借りたのかを知って、ひどく腹を立てた。「不思議」の方は、三本足のひよこで、ぼくたちが飼っているめんどりが生んだのだ。近所のみんながひよこを見たがった。ぼくたちは大人から五セント、子供から二セントもらった。それで二十ドルも稼いだのだが、目玉の出し物が死んでしまったので、博物館も閉館の憂き目を見たのだった。
(この項つづく)
帽子が見つかる。つばの広い麦わら帽子で、飾りのベルベットのバラは、日に焼けてすっかり色があせている。前はもっと羽振りのいい親戚の持ち物だった。ぼくたちは一緒にぼくらだけの荷車、というか、壊れた乳母車を引いて、庭を抜けてペカンの果樹園へ入っていく。その乳母車はぼくのものだ。つまり、ぼくが生まれたときに買ったものなのだ。小枝を編んで作ったところは、ほつれかけていて、車輪は酔っぱらいの千鳥足みたいにおぼつかない。だが、こいつはしっかりと役に立ってくれるのだ。春になればぼくたちは荷車を引いて森へ行き、花や香草や野生のシダをどっさり採って、ぼくらの使う玄関の植木鉢に植えてやる。夏にはピクニックの道具や砂糖キビの茎でこしらえた釣り竿を積んで、小川の岸辺に行く。冬には冬の役目がある。手押し車として、庭のたきぎを台所まで運んだり、クィーニーの暖かな寝床にもなるのだ。クィーニーはぼくたちが飼っているオレンジのぶちのある白いラットテリアだ。小さくて強いこいつは、ジステンパーにかかったこともあるし、ガラガラヘビには二度もかまれたのに、生き延びたのだ。そのクィーニーが、いまは荷車の横を早足で駆けていく。
三時間後、ぼくたちは台所に戻っていて、荷車にどっさり積んだ、風落ちのペカンの実の皮をむいている。ペカン拾いのせいで背中が痛い。落ち葉の下や、霜の降りた草の陰に隠れている実をそれだけ探すのに、どれだけ苦労したことか(ほとんどの実は枝からふるい落とされて、果樹園のもちぬしが売ってしまったあとだった。もちろんもちぬしというのは、ぼくらのことではない)。カリッッ! ミニチュアサイズの雷がとどろいたような、小気味のいい音を立てて殻が割れ、甘くて脂分の多い象牙色の果肉が、金色の山となって、乳白色のガラスの器に積み上がっていく。クィーニーが、口に入れてくれ、とせがむので、ときどきぼくの友だちがかけらをこっそりと食わせてやる。だが、ぼくたちは自分の口には絶対に入れない。「あたしたちが食べちゃいけないんだよ、相棒。ひとたび食べ始めちゃったら、もう止まらなくなっちゃうからね。だいたいこれだけあっても、足りるか足りないかってとこなんだ。なにしろフルーツケーキ三十本なんだもの」台所は少しずつ暗くなっていく。宵闇が窓ガラスを鏡に変える。窓に映ったぼくらの姿、暖炉の火に照らされた、暖炉の火に照らされて手仕事を続けるぼくらの姿の中に、昇ってきた月が仲間入りする。ついに、月が天高くなったころ、ぼくたちは最後の殻を火に放り込み、一緒にため息をついて、火に包まれた殻を眺める。荷車は空っぽ、ボウルは山盛りだ。
ぼくらは晩ご飯(冷えたビスケット、ベーコン、ブラックベリーのジャム)を食べながら、明日のことを話し合う。明日にはぼくの一番好きな仕事が始まるのだ。買い出しだ。さくらんぼにシトロン、ショウガやヴァニラ、ハワイ産のパインアップル、オレンジの皮や干しぶどう、くるみにウィスキー、そうそう、小麦粉もバターも卵もスパイスも香味料も山ほど。おやおや、家まで荷車を引くのに、ポニーが必要かもしれない。
とはいえこうした物が買えるかどうか、お金の問題がある。ぼくたちのどちらも、少しも手持ちがなかった。ごくたまに、家の誰かが雀の涙ほどのお小遣いをくれたり(十セント硬貨一枚でも大盤振る舞いだった)、ぼくたちがいろんなことをやって稼いだだけだ。がらくた市を開いたり、摘んだブラックベリーを手桶に入れたのや、ジャムやアップル・ゼリーや桃の砂糖漬けを作って瓶に詰めたのを売ったり、お葬式や結婚式のために花をどっさり摘んだり。以前、ぼくたちは全米フットボールコンテストで七十九位になって、五ドルを手に入れた。フットボールのことなんてちっとも知らなかったのだが。懸賞があると聞けば、何だって参加した。ちょうどいま、ぼくたちが望みを託しているのは、グランプリ五万ドルのコンテストで、新発売のコーヒーに名前をつけるというものだ(ぼくらは「A.M.」という名前を出したのだった。ぼくの友だちの方が、神様を冒涜するものではないかと思ったので、ぼくらはしばらく迷ったのだが、キャッチフレーズを「A.M.! エイメン!」とした)。正直に言うと、ほんとうに利益が上がった事業というのは、二年前の夏、ぼくたちが裏庭のたきぎ小屋で開催した「楽しくて不思議な博物館」だけだった。「楽しい」というのは、ワシントンとニューヨークの写真をスライドにして、幻灯機で映し出すというものだった。写真はそこに行った親戚が貸してくれたのだ(のだが、あとでぼくたちがどうして幻灯機を借りたのかを知って、ひどく腹を立てた。「不思議」の方は、三本足のひよこで、ぼくたちが飼っているめんどりが生んだのだ。近所のみんながひよこを見たがった。ぼくたちは大人から五セント、子供から二セントもらった。それで二十ドルも稼いだのだが、目玉の出し物が死んでしまったので、博物館も閉館の憂き目を見たのだった。
(この項つづく)