陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トルーマン・カポーティ「クリスマスの思い出」その3.

2009-12-02 22:30:52 | 翻訳
その3.

 ともかく、あれやこれや算段を重ねて、ぼくたちは毎年クリスマスのためにお金を蓄えていく。まさにフルーツケーキ基金だ。そのお金をふるぼけたビーズの財布の中にこっそりとしまい込んで、ぼくの友だちのベッドの下、床のおまるを置いた場所の真下の、ゆるくなった羽目板の下に隠しておく。財布はめったなことではそこから動かない。取り出すのは、お金を預金するときか、毎週土曜日に引き出すとき。というのも、土曜日、ぼくは映画を見に行くために十セント、お小遣いがもらえたからだ。

ぼくの友だちは映画には行ったことはなかったが、行きたいと思ってもなかった。「あたしはあんたの話を聞いてる方がいいんだよ、相棒。その方がもっと想像をふくらますことができるからね。それにさ、あたしぐらいの年寄りは、目を無駄に使っちゃいけないの。主がいらっしゃったときに、お姿をはっきりと見せていただかないとね」映画を観たことがないばかりではない。そのほかにも、彼女はレストランで食事をしたことも、家から八キロ以上離れたところへいったこともないし、電報は受けとったことも出したこともなく、新聞の連載漫画と聖書を除けば何かを読んだこともない。化粧したこともなければ、悪態をついたこともなく、人に禍が起こればいいなどと思ったこともない。わざと嘘をついたこともなければ、腹ぺこの犬をほったらかしにしていたこともなかった。

それじゃ、彼女がこれまでにやったことや、していることをあげてみよう。この郡で見つかったなかでは一番大きなガラガラヘビを鋤でころしたし(ガラガラが十六個ついていた)、嗅ぎタバコをやるし(こっそりとだが)、ハチドリを慣らして指に留まらせることもできる(できるものならやってみてほしい)、お化けの話をさせれば(ぼくたちはふたりともお化けがいると信じている)七月でも背筋が凍るし、独り言を言うし、雨の中を散歩するし、村一番の美しい椿を育てているし、昔から伝わるインディアンの薬の配合なら全種類知っている。魔法みたいにイボを取ることだってできるのだ。

 さて、夕食が終わったので、ぼくたちは家の外れにある友だちの部屋に戻っていくのだが、そこで彼女は余りぎれで作ったキルトカバーをかけて、大好きなローズ・ピンクに塗った鉄のベッドに寝るのだ。押し黙ったまま、共謀の喜びに身を浸しつつ、ぼくたちは例の秘密の場所からビーズの財布を取りだして、中身をキルトの上にばらまく。

ドル紙幣はきつく巻いてあって、五月のつぼみのような緑色をしている。陰気な色の五十セント玉は、死者の目を開かなくさせるほどの重みがある。きれいな十セント玉は一番いきいきとしていて、ほんもののクリスマスの鐘のような音を立てる。五セント玉と二十五セント玉は、すり減ってしまっていて、小川のなかの小石みたいだ。だが、ほとんどは気の滅入るようなにおいのする一セントの憎たらしい山だ。

去年の夏、ぼくたちは家のほかの連中から仕事を請け負った。二十五匹、ハエを殺すのと引き換えに、一セントもらうのだ。まったく、八月の大殺戮だった。天国に行ったハエ君たち。とてもじゃないが、自慢できるような仕事じゃない。こうやってすわって一セント硬貨を勘定してても、なんとなく死んだハエをもう一度集計しているような気がしてくる。

ぼくたちはふたりとも計算が向いているような頭のもちぬしではないのだ。数えるのは遅かったし、しょっちゅうわからなくなって、初めからやり直す。彼女の計算によれば、ぼくたちは12ドル73セント、持っていることになる。だが、ぼくの数えたところでは、きっかり13ドルになるのだった。「あんたがまちがってたらいいんだけどね、相棒。13なんていう数と係わり合いになるなんてことは願い下げだよ。ケーキが崩れてしまうかもしれない。それとも誰かがお墓に入るか。ほんと、あたしなら十三日はベッドから出るのも願い下げだね」これはその通りなのだ。彼女は十三日が来るたびに、一日中ベッドのなかで過ごす。だからバチが当たらないように、ぼくたちは一セントを窓の外に放り投げた。

(この項つづく)

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