hiyamizu's blog

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金原瑞人「大人になれないまま成熟するために」を読む

2010年02月17日 | 読書2
金原瑞人著「大人になれないまま成熟するために 前略。『ぼく』としか言えないオジサンっちへ」新書y、2004年10月、洋泉社発行を読んだ。

裏表紙にはこうある。
あらゆる両義性を引き受ける、ポップで少しだけ重い人生論。
三十を過ぎた、いい大人がなんで「ぼく」なんだ!?
こんな言い方が喝采を浴びることがある。しかし、本当にそう言えるのか。
「ぼく」たちは、逆に「大人になれない大人」にとどまるべきではないのか。
団塊の世代にはじまる世界的な「若者の時代」を復習し、
若者に“No”と言って、事足れりとするのではなく、
自らの「子ども大人」性を自覚した嘘のない生き方をめざす。
ヤングアダルト文学、現代の若者文化、その断絶と連続…
「ぼくたち」を条件づけている社会環境から若者に対する視線を取り出し、
大人になれないことを許容したまま、成熟の道を探れ!


団塊世代以降の三無世代(無気力・無関心・無感動)と呼ばれた学生時代を過ごした著者は、自分のことを「わたし」と言うと違和感を感じ、「ぼく」と言う。著者の世代にはそういう大人が多い。大人になれないなら、「子ども大人」のままでやっていけばよいと考えている。

50年代のアメリカではじめて「若者」が社会の構成要素の一つとして登場した。先日亡くなったサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』がヤングアダルトの萌芽で、ファッション、ロックンロールなど若者文化が走り始める。そして、若者が切り開く新しい音楽、映画の流れが解説される。しかし、文学については、音楽、映画から遅れてヤングアダルトとして始まる。やがて、「若者」が「未完成な大人」の存在から、ポジティブなものへ躍り出る。
さらに、日本ではどうか、などについて論を展開している。

あとがきにこうある。
実はこの本、金原が書いたものではありません。金原が語ったものを、フリーの編集者である今野哲男さんがまとめたものです。




私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

私は、団塊の世代の数年上の世代だが、自分のことをたいていは「僕」と言い、くだけた席では「俺」と言うこともあり、大勢の前での挨拶などごくまれな正式の場以外では「私」とは言わない。また、変なところで、自分の流儀、主義にこだわり、妥協したくないと無駄な抵抗をするところは、自分でも大人になりきっていないと思う。そんな私は、著者の主張に大筋では賛成する。

しかし、すぐ上にのさばる団塊の世代への著者の反感が強すぎて、うんざりする部分もある。著者が大学に入ったときには内ゲバの時代で、反感が強いのも理解できるのだが。団塊の世代が闘争の時代を終えた後に、出世の階段をまっしぐらに登り、バブルを引き起こしたと言うのは、彼らに同情的な私からみると、少し短絡的だと思う。

確かに、昔は大人と子供の区分ははっきりしていた。昔は、大人中心の社会で、子どもや若者は早く大人になりたがったものだ。そのうち、団塊の世代が若者になり、消費の中心になると若者中心の社会になりかけ、今や、高齢者が重たい荷物になり、若者が中心の社会で、家庭では子どもが中心になってしまった。こんな社会では、子どもや若者は大人になりたくないと思うのは当然だ。


アメリカの若者文化に詳しく、日本のサブカルチャーにも、少なくとも私よりははるかに詳しい著者の日米の文化の流れの解説は、なるほどと思う点が多かった。持ち出される音楽、映画、文学のうちいくつかは私も知っているのだが、大きな流れの中で説明されると、新しいものを生み出す必然性があったことに納得がいく。



金原瑞人
1954年岡山生まれ。法政大学大学院英文学科博士課程修了。翻訳家。法政大学社会学部教授。エスニック文学、マイノリティ文学、児童文学などを講じ、担当する創作ゼミからは古橋秀之、秋山瑞人、金原ひとみと三人の若手作家を輩出している。ヤングアダルト作品を中心に、翻訳した作品は二百点近い。
金原ひとみが綿谷りさと共に芥川賞を受賞したとき、金原瑞人が、「私は200冊近い本を出したが、(引きこもりだった)娘は一冊目でその部数を上回ってしまった。」というような趣旨の話を嬉しそうにしたのを思い出した。



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