hiyamizu's blog

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柴田元幸、高橋源一郎「小説の読み方、書き方、訳し方」を読む

2009年05月30日 | 読書2

柴田元幸、高橋源一郎著「小説の読み方、書き方、訳し方」2009年3月、河出書房新社発行を読んだ。

もっとも油の乗った翻訳者で村上春樹のお友達でもある柴田元幸氏と、先端的小説を書き続ける高橋源一郎氏による、「小説の読み方、書き方、訳し方」に関する対談集だ。

いわば“ふつう”の小説ではない、お約束無視の跳んだ小説を対象とした話で、高橋氏が書き方、柴田氏が訳し方、両者が海外と日本の小説の読み方について、互いに質問し、答え、話し合っている。

柴田元幸は、1954年東京生まれ。東京大学文学部教授。翻訳者。訳書多数。著書に「アメリカン・ナルシス」「それは私です」など。

高橋源一郎は、1951年広島県生まれ。1981年「さようなら、ギャングたち」で群像新人長編小説賞優秀作、1988年「優雅で感傷的な日本野球」で三島由紀夫賞、2002年「日本文学盛衰史」で伊藤整文学賞を受賞。



私の評価としては、★★★★☆(四つ星:お勧め)

行き詰っている小説を何とか打開しようとする高橋源一郎の苦闘ぶりがよくわかる。もっとも本人は明るく楽しんでいるように見える。そして、文学とは縁がなく、ただただ英語が得意だったという柴田元幸氏は面白そうなものは片っ端から読んで訳してしまう翻訳オタクだ。

「“ふつう”の小説が嫌いな人(読まないあるいは書かない人)は、まず約束事コードや、演出が目に付いてしまう。芝居で後ろの背景の木がベニヤ板だとつい認識してしまうように。そこで、コードのない小説を書くことになるが、高橋さんはまったく完全にコードを否定すると文学上の原理主義になってしまうという」

「国文学の背骨にあるアメリカン・ウエイ・オブ・ライフ(幸福の追求、暮らし方)には、個人は勝つという哲学、願望があるが、村上春樹のウエイ・オブ・ライフには組織には負けるという思いがある」

「米国と日本を比べると、日本の小説の方が自由で、壊れていて、新しい小説への取り組みは日本の方が進んでいる。2000年以降、米国の小説は急に妄想や幻想に走り始めていて、病が進んでいる日本の小説に追いつこうとしている」
(しかし、その小説というのが、ルール無視の壊れた小説では、読者に支持されるのだろうか。高橋さんが言う小説、文学動向は単なる跳ね上がりの枝葉、あだ花小説ではないのかとの疑問もわく)

「歴史の本を読めば歴史がわかるし、法律の本を読めば法律がわかるが、文学を読むと文学でなく人生がわかると考えられていた時期があった。しかし、その読み方は不純だ。今は、『何を書くか』よりも『どう書くか』『どういう声で書くか』だ」



目次
第1章 柴田さんが高橋さんに聞いた「小説の書き方」
(小説を成立させている「コード」とは何か?;文体を持たずに小説は書けるだろうか? ほか);
第2章 高橋さんが柴田さんに聞いた「小説の訳し方」
(柴田さんはなぜ翻訳家になろうと思ったのかを聞いてみた;「アメリカ文学」って何だろう? ほか)
第3章 高橋さんと柴田さんが選んだ60冊で考える「小説の読み方」海外文学篇
(まず、訳者で選んでみる;日本とアメリカの、読まれ方 ほか)
第4章 橋さんと柴田さんが選んだ60冊で考える「小説の読み方」日本文学篇
(「海外に紹介したい日本の小説」と「ニッポンの小説」;中上健次の軌跡をたどるとき「日本文学の運命そのものが見える」 ほか)
第5章 柴田さんと高橋さんの「小説の読み方、書き方、訳し方」
(「読む」「書く」「訳す」は本来一つのことかもしれない;柴田さんが「小説を書けない代表」なら、高橋さんは「詩を書けない代表」らしい ほか)

初所としては、第一章は、「文藝」2006年夏号での柴田氏による高橋氏へのインタビュー、第二章はそのお返しとして高橋氏による柴田氏へのインタビュー、第三章は、「文学界」2002年12月号での柴田・高橋対談で、第四章も、両者が30冊を選定し語り合う本書のための企画で、第五章は「文藝」2009年春号での総括としての対談だ。

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