hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

桐島洋子の森羅塾へ

2008年11月06日 | その他
桐島洋子さんが主宰する大人の寺子屋「森羅塾」に夫婦で参加した。

桐島洋子は、「淋しいアメリカ人」、「聡明な女は料理がうまい」、「マザー・グースと三匹の子豚たち」などで知られるエッセイスト、ノンフィクション作家。子どもは桐島かれん、ノエル、ローランド。



参加したのは、森羅塾での自分史「桐島洋子の千夜一夜物語」の12回シリーズの2回目、「敗戦、窮迫の没落家族と豊満な自然の中の少女時代」だ。

23人ほどの参加者が長方形に並べた机に座り、桐島さんの話を聞く。20代から70代まで幅広い年齢層で、一人だけが場違いな男性(私)。ほとんどがその著書から強烈な影響を受けた熱烈な桐島ファンだ。

桐島さんは、戦況が悪化する中、上海から大連に出て、船で日本へ帰国した。当時、日本は制空権を完全に失っていたので、船は朝鮮半島の島伝いに夜間だけ進んだという。
終戦で葉山に移った。1000坪の土地に120坪の家だったが、ぼろ屋だった。当時米軍は将校の宿舎用に葉山の別荘を次々と徴収していたが、あまりのぼろ屋に徴収を逃れたという。

高貴で誇り高い祖母、教養があって働き者の母、美しいものを愛し、女性に優しすぎる父、別荘の子として地元の子どもからいじめられる洋子さん。そんな話の中で、桐島洋子が作られていく背景が語られる。話を聞いて、まさに、時代のうねりの中で“女性の快男児”が生まれた素地がわかったような気がした。

一つだけ紹介すると、葉山の海で泳ぐことにより、その後の芯となることを2つ学んだという。一つは、内なる重心を知ることで、もう一つは、リラックスの才能を得たこと。前者は、“自分自身で”その日の体調を把握してどこまで泳ぐかを決める中で得た。後者は、大きな波には逆らってもかなわないので、むしろリラックスして波に任せた方が良いことから習得した。

それにしても、太宰治など没落家庭から文化的に優れた人がでることが多い。幼い時に優れた文化に十分に触れ、長じて貧しさの中で文化への飢餓状態に置かれることが優れた文化人を生み出すとは考えられないだろうか。



講話の途中で、戦後を偲ぶ食べ物が出された。



すいとんは具だくさんで大変美味しかった。しかし、戦後に私がご飯代わりにさんざん食べさせられたすいとんはお湯の中に小麦粉のかたまり(すいとん)が入っているだけで、見ただけでうんざりする食べ物だった。



桐島家は猟師から売り物にならない小魚をもらって食事の足しにしたという。地元、葉山でとれた小あじを揚げたものは、二度揚げしてあるので、すべてカリカリでこれも美味しくいただいた。



甘く煮たさつまいも、ごぼうのチップス、アジもただただ美味しい。チップスはピリ辛のパリパリで酒飲みにはたまらないだろう。戦後、ふかしたさつまいもが良く出てきたが、当時は砂糖も少なく、こんなに甘く、やわらかではなかった。筋が多く、ただただ喉に詰まって良い印象はない。
今回は出てこなかったが、戦後に良く食べさせられたのはおからだ。味付けもないパサパサのおからは私のトラウマになっていて、おいしく味付けされた現代のおからも見ただけで拒絶反応が出る。




新鮮なミニトマト、キュウリを、複雑な美味の味噌と、桐島さん手作りのドレッシングでいただいた。ドレッシングは、タマネギとニンジンをフードプロセッサーにかけ、塩コショウし、薩摩の黒酢を混ぜて冷蔵庫に入れておく。使うときにブドウからとったグレープシードオイルを混ぜる。

講座終了後、希望者だけの食事会に参加した。ごく狭い世界に閉じこもっている私には、普段お会いすることもない皆さんとの懇談は楽しいものだった。




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